西本恵「カープの考古学」第88回<高卒ルーキー百花繚乱編その11/日本独立直後の3連敗。喫したノーヒットノーラン>

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 日本が日本国として歩みはじめた昭和27年4月29日、3年目のカープは戦力が乏しく、新人投手に頼りながらペナントを戦っていた。4月30日、呉市二河球場では大阪タイガース(現・阪神)に1対4で敗れた。さらに5月1日は広島総合球場で、同じくタイガースに0対3と敗れ、日本独立後のカープはいいところなしで2連敗。草創期のカープは負け続けると止まらない。“次こそは”と満を持して、5月7日の一戦で、カープは先発マウンドにエース長谷川良平を送った。

 

タイガース眞田の新境地

 対するタイガースは剛腕、眞田重男(当時。昭和29年途中から重蔵に戻す)。かつての速球主体のピッチングではなく、緩急を使ったことが功を奏した。

<この日の眞田はスローカーブに頼ったのが成功>(「中国新聞」昭和27年5月8日)

 

 速球投手には、投手生命において、分岐点があるとされている。気力体力と練習量に任せ、成長し続けてきた20代を過ぎ、30代になると誰しもがさしかかる分かれ道だ。球速が落ちてきたストレートで勝負することに限界を感じ、変化球を見せながら、勝負をしていくのである。眞田の生涯成績(178勝128敗)においても、この年が分岐点で、新たな投球術を身につけて復活したと言われている。その新境地を見出した試合がこの一戦だった。

 

 試合はカープの先発・長谷川が初回、2回と無事ゼロに抑えて、立ち上がりの良さを見せつけた。

 一方、ボールの威力が落ち目に向かっていた眞田も、初回2アウトをとり、3番の大澤清を四球で歩かせた。少しばかり不安な立ち上がりとなったが、後続を断ち、3アウトチェンジ。眞田にとって、この大澤に与えたフォアボールが、後で残念な思いを抱くこととなった。

 

 尻上がりに調子を上げ、アウトを重ねていく眞田に対し、一方の長谷川は3回、突如として崩れ、打たれ始めた。タイガース打線を前に、走者をためては打たれるという悪循環に陥った。監督の石本秀一は急遽、長谷川から新人の松山昇にスイッチした。

 

 この時の攻撃の記録は中国新聞(昭和27年5月8日)によれば、こうある。

<攻めては三回十三人の走者を送り、西江の二塁打を含む八安打を長谷川、松山に浴びせ、一挙九点をあげて、前半にして試合を決した>

 

 3回を終わった時点で、9対0でタイガースのワンサイドゲームとなった。いつも上り調子のタイガース、眞田をまったく打てないカープ。さらに5回表に1点と、6回表に2点を加え、12対0でカープを突き放した。眞田は速球で押すわけではなく、打ち気をそらすピッチング。スローカーブを実にうまく使い、そのままノーヒットに抑え続け、とうとう9回にまできてしまうのである。こうなると初回のフォアボールを惜しむばかりだが、ノーヒットノーランの期待は高まるばかりだ。最後のバッター白石勝巳(敏男)を打ち取り、ゲームセット。打者28人に対して、三振4つと少なく、打たせて取るスタイルでノーヒットノーランを達成した。

 

 カープは、記念すべき日本が独立を果たした後、3連敗を喫し、かつ3試合目はノーヒットノーランをくらうという、悔しく腹立たしい日となったのである。

 

 もし、地元ラジオで中継されていたらどう報じられただろうか——。こんな放送になっていたのではあるまいか。

 

 さあ、バッターボックスは白石。ピッチャー眞田、投げました。打ちました。しかしこれは、ゆうゆうアウト。ゲームセット——。なんとカープは3連敗! 一方、眞田はノーヒットノーランを達成しました! 敵ながらあっぱれ!

 いずれにせよ、カープとしては悔しい3連敗となった。

 

ラジオ中國が華々しく開局

 さて、ラジオ中継であるが、本年2025年はラジオ放送開始100年を迎える。カープ観戦をラジオで楽しむ人は今も多い。とりわけカープファンはRCC中国放送の電波にのって、カープの勝った負けたに一喜一憂しながら、野球に情熱を傾けるのである。

 カープ3年目のシーズンで、日本の独立を待っていたかのように、また、タイガース眞田の大記録を祝福したわけでは決してないが、同日の5月7日、広島にラジオ局が設立された。

 

<ラジオ中國 華々しくスタート>(「中国新聞」昭和27年5月8日)との見出しが躍った。さらに<七日午後二時から、広島ガスビルで設立総会を開始した>(同前)と伝えられ、総会の内容はこうだ。

<同社の放送はJOER「ラジオ中国」の名を用い、周波数一二六〇キロサイクルで今夏開局を目標に諸準備をすすめサービス・エリアも中国全域に拡散、強力なスタッフ布陣のもとに発足することとなった>(同前)

 

 強力なスタッフ布陣とは頼もしい。この年には、後に名実況といわれた山中善和アナが入社する。昭和50年のカープ初優勝の実況を担当する上野隆紘アナはまだ入社していない。またこの日、誇らしいことに出資も予定額を突破したことが新聞で伝えられた。カープと共に歩み続ける放送局が開設された記念すべき日となった。

 

 話を元に戻そう。日本が独立を果たし、カープは3連敗——。いつまで負け続けるのか、ファンも頭を抱えたことだろう。第4試合目においては、場所を大阪森ノ宮の日生球場に移し、見事にタイガースを破った。この日のカープは3連敗のうっぷんを晴らすかのように打った。13安打を浴びせ、10対3で快勝した。投げては、2年目の杉浦竜太郎と、高卒新人の大田垣喜夫が計10安打されながらも、粘りのピッチングで3点に抑えての勝利であった。

 

 この大田垣と尾道西高校(現・尾道商業高校)のチームメイトで、当時はファーストを守っていたあの男も昭和27年に入団し、活躍しているのだ。

 

 あの男とは、榊原盛毅——。身長182センチの上背から投げ下ろす速球は見どころがあった。高校時代は好投手として注目されていたが、エース大田垣が、ほとんどの試合を投げていたため、榊原は主にファーストを守り、リリーフ登板がたまにあるくらいだった。しかし、カープは、昭和27年2月のキャンプ時点でエース長谷川が名古屋から戻っていなかった。監督の石本は投手不足の現状を直視し、榊原を採用したのだ。

 

 榊原は2月時点ではまだ高校生。社会人野球の倉敷レーヨン、通称“クラレ”に内定していた身だった。だがカープは戦力不足であり、投手不足とあって、すぐに後援会の役員を通じ、榊原に触手を伸ばしたのである。

 榊原の入団は、当時のカープとしてはユニークなケースであった。スカウトの声掛けによるものではなかったという。では、いったいどのようにして、入団に至ったのだろうか——。

 

 さあ、カープの考古学、「高卒ルーキー百花繚乱編」もいよいよクライマックスを迎える。次回は2月に広島総合球場にやってきた男、榊原盛毅について記す。戦後すぐの当時、182センチの男といえば、いわゆる大男のイメージであろう。この大男がシーズン終盤に大車輪の活躍を見せる。次回の考古学にご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」昭和27年5月8、9日、『カープ50年—夢を追って—』(中国新聞社・広島東洋カープ)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ』(トーク出版)

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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