西本恵「カープの考古学」第89回<高卒ルーキー百花繚乱編その12/入団テストに布団を持って行け!>
カープが球団草創期に頼った戦力といえば、選手として峠を越え、他球団では契約が難しいであろうベテラン、いわゆる契約くずれともいえる選手らであった。他球団からの勧誘に漏れた選手らを集めているカープに対する他球団やマスコミ筋からは、ひどい言葉を浴びせられていた。
<プロの養老院とか、ロートルチームだとか、陰口をたたかれたカープ>(「読売新聞」カープ十年史『球』71回)
しかし、ロートルといった言葉を一掃するかのように、昭和27年、球団創設から3年目のシーズンには、高卒の新人投手を発掘したのである。尾道西(現・尾道商業)高校から大田垣喜夫、興國商業(現・興國)高校から松山昇、さらに広島市立基町高校から川本徳三である。なお、川本については、高校2年生でありながら、中退させて入団させるという離れ業をやってのける。こうした若手投手を入団させる背景としては、資金力が乏しかったからに他ならない。終戦後の幾度かの好景気にあわせて、企業もプロ球団を持った。「明日の新聞記事の売れ行きのため」「試合観戦に駆け付けるファンらの足になる」など、親会社の商業的な狙いで、新聞社や鉄道会社が球団を持った時代である。
だが、この年は、広島市の人口が約30万人とあって、ファンの鉄道利用や新聞の売れ行きに期待しても、市場規模自体は小さい。広島の企業も球団を持つ資金力などなかった。そこで他球団が契約をしなかったベテラン選手らを獲得してきたのだ。ここで石本秀一監督の奇策が功を奏した。金がないならば、頭を使えとばかりに契約金、給料も安価に抑えられるという高卒選手に目を付けたのだ。全県下に広がる後援会の役員を通じ、尾道西高校3年生の榊原盛毅に声をかけたとされる。
榊原は卒業を翌年3月に控えており、すでに社会人野球の倉敷レーヨン入りが内定していたものの、当然ながらプロへの夢はあり、地元広島県にあるカープとあらば、入団に一切の迷いもなかった。
<そのままカープの宿舎に泊まり込むぐらいの気持ちで行けといわんばかりに「布団と毛布を持っていくように」と後援会の会長の言葉に従い>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけぇカープが好きなんよ~』(トーク出版)
入寮後の入団テスト
野球用具と共に布団と毛布を持っていけと言われ、その指示に従い、当時のカープの宿舎の御幸荘に、入団テスト前日2月20日に入った。
<「オウッス(こんにちは)。榊原です。尾道西高校から来ました」と気合を込め、挨拶をして玄関を入った>(同前)
カープのこれまでの歴史の中において、推察ではあるが、入団決定前に入寮しているというのは榊原だけではなかろうか——。
テスト当日、石本監督が腕を組んでじっとそのボールの先を見つめていた。数球投げた後、「よーし、いいぞ」「やめー」と石本監督。そして「明日から練習に参加せい」と続けた。

(写真:名古屋軍相手に好投した昭和27年の翌年から背番号は12となった榊原盛毅 榊原麗子氏所蔵)
形ばかりであったかもしれぬが、入団テストを経て、榊原の入団は決まった。このことは期待を込めて広く伝えられた。
<榊原盛毅(一八)さきに契約した大田垣投手とともに尾道西高校の一塁手として活躍した、六尺の長身から投げ下す直球にはすばらしいスピードがある>(「中国新聞」昭和27年2月29日)
新聞記事にあっては、六尺(約182センチ)の長身から投げ下ろすストレートの威力を伝えている。この榊原の入団が、カープを救うことになったのだから、草創期のカープの行く末は読めなかった。昭和27年シーズンにまで採用されていた、“3割規定”の重圧をはねのけた。“3割規定”とは、勝率3割を切った球団の処遇はセ・リーグ連盟に一任をするという、いわば最下位をひた走るカープ抹殺のため、いや、カープつぶしのために策定された規定ともいえた。
では、いかにして榊原はカープを救ったのか――。この年、カープ選手らには、プロとして慣れがでてきていたのであろう。前々年までは給料がもらえるか否か、前年には球団の存続さえ危ぶまれ、大洋球団との吸収合併かという究極の事態を経験していた。
しかし、昭和27年からのカープは後援会からの資金が定着し、給料の遅配欠配に悩まされることがなくなった。そこで安心感が芽生え、甘えたわけではないだろうが、常に勝たなければならない危機感は薄れていた。開幕早々に7連敗。5月後半から1引き分けをはさんで8連敗、7月後半からは8連敗。9月後半にも7連敗と、一度負け続けたら、なかなか勝ち星に巡り会えなかった。その結果、松竹ロビンスとの最下位争いに終始した。
しかし、これには、セントラル・リーグ連盟の思惑が透けて見えてもいた。広島という一地方にあって、在阪在京の球団と比べ、移動距離が長くなるのは言うまでもない。さらに、9月は12日間のダブルヘッダーを含め1カ月に29試合という過酷な日程を組まれたりもした。それに開催地も広島から四国、さらに広島に戻り、関西-下関-関西から名古屋に入るという過酷そのものの日々を過ごした。連盟としても、カープが連戦に耐えきれず、勝率3割を切ってしまい、消滅してくれたらよいという思いはあったのではないか。
「打てなければ、当たれ」と檄
こうした中、石本は9月28日の名古屋軍とのダブルヘッダーが、カープ勝率3割をかけ、チームの浮沈を握ると判断した。前日の夜に名古屋の五月旅館の一室に選手らを集めてミーティングを開いたのである。
<「連戦につぐ連戦で、諸君が疲労しきっていることはよく知っている」>(「中国新聞」広島カープ十年史71回・昭和35年2月8日」と前置きする石本。
<「しかし勝率三割だけは石にかじりついても達成しなければ、せっかくきょうまで存続してきたカープも連盟の規定にしたがって解散するか、合併されるほかなくなる」>(同前)
前年まで解散や、合併の言葉に揺れ動かされたカープ選手らである。いくら新しい選手らが増えたとはいえ、カープの存続の危機に瀕したチーム事情は承知していた。またもや危機か――、こんな気持ちにさえなったろう。
この時のことを球団職員の渡部英之(故人)はこう伝え聞いている。
「石本監督が、涙声で壮絶な大演説をぶったそうです。バッターは打てなければ、(ボールに)当たれ。ピッチャーは肩が抜けても投げろ、だったそうです」
涙ながらにも声をからした石本の言葉から、選手らは動けなかったと。
石本の大演説は続いた。
<「もうこれだけいえばわかってくれると思う。ワシと同様、カープを死に場所にしている人もあるはずだ。がんばってくれ…。ただ、それだけだ」>(「読売新聞」カープ十年史『球』82回)
普段のしわがれ声から、金切り声のような、振り絞る声に選手らはしばらく動けなかった。無言でうつむく選手らを前に大部屋を出ていった石本。
次の瞬間、武智修が動いた。
「よし、やるぞ」。バットを持って、五月旅館の外に出てバットを振り始めた。一人また、一人と、旅館の表に出た。
<ただ静まり返った秋の夜長に、するどいバットスイングの音だけが響いた>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版)
名古屋軍に3連勝
この翌日のダブルヘッダー第一戦はエース長谷川良平を立てて臨んだ。粘りのピッチングで完投したものの打線が沈黙、0対5で敗れた。
第一戦をエースで落としたことから、奇策に出た。
「先発は、サカキ(榊原)だ——」と石本監督。
本人も驚きを隠せなかった。過去に一度も先発したことがなかった高卒新人である。前日に言われたのならば、緊張もしたろうが、第一戦に負けた後とあって、リラックスした気分で、「エエイ、どうにでもなれ」との思いでマウンドに上がったというのだ。
この日の試合、榊原は8回途中まで、西沢道夫や杉山悟らのいる強打の中日を3安打の1点に抑えた。8回裏、先頭打者にフォアボールを与えたところで、長谷川のリリーフを仰いだ。9回表を終わった時点で4対1。カープはその裏に2点を失ったものの、後続を断ってゲームセット。
榊原は打っても4打数3安打2打点をあげ、まさに投打で大活躍であったのだ。カープはこの勝利を境に、名古屋軍に対して3連勝を果たす。翌9月29日、刈谷での名古屋軍とのダブルヘッダーは第一戦を延長13回の大熱戦の末、8対5で制し、第二戦も投手陣を総動員させて6対4で勝利した。
奇跡ともいえる3連勝で勢いに乗り、臨んだ10月2日から最下位争いをする松竹との三連戦。これを2勝1敗で乗り切り、ようやく勝率3割が見えてきた。
カープ創設3年目の昭和27年は、チームの浮沈をかけたシーズンだった。その分岐点となった試合で、高卒新人の榊原の好投によりチームの勢いが増した。これにより名古屋軍戦3連勝を実現したのは明白であった。
さあ、来月からはカープの「浮沈を占う3年目のシーズン編」を詳細にお伝えする。戦力的には苦しみながらも、給料への不安が一掃され、一般のプロ野球チームに近づいたシーズンにさまざまなハプニングの連続である。ご期待あれ。
【参考文献】
「読売新聞」カープ十年史『球』71回、82回、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』(トーク出版)、「中国新聞」(昭和27年2月29日)、「中国新聞」広島カープ十年史71回(昭和35年2月8日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)