西本恵「カープの考古学」第87回<高卒ルーキー百花繚乱編その10/日本独立直後の流血の大惨事——カープの第二戦は新人投手が先発>

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 カープは3年目のシーズンに入った。昭和27年4月29日に日本は独立国家として認められた。この独立という言葉に引っ張られるかのように、晴れて社会人となったカープの新人選手は、入団した年から活躍している。日本独立直後の4月30日の試合では阪神に1対4と敗れた。二戦目は翌5月1日に組まれ、同カードの阪神戦である。地元広島に戻ってきての試合に独立後の初勝利はなるのだろうか。

 

 当時の日本国民の不安定な気持ちは、こう描かれている。

<例えば日の丸一つにしても、独立の今日でもまだ揚げる揚げないで、何か割り切れないものを感じているようで、新生日本のあり方が問題となっている>(「中国新聞」昭和27年5月2日)

 この記事については、5月1日発行の夕刊とも併記されている。しかし5月2日付けの「中国新聞」朝刊には、こうもある。

<日の丸の旗も遠慮なく軒先にはためくようになった>

 

 上記のことからもわかるように、この年の5月1日、メーデーを境に日の丸の掲揚へのためらいの気持ちから脱し、変化が生まれてきたのではなかろうかと推察される。

 

日の丸掲揚のお礼をGHQに

 この日の丸掲揚について、広島出身のある人物の思いが近年の研究著書で明解にされた。昭和27年からさかのぼること3年、ある男が、GHQの門戸を叩いた。

 

 その男とは任都栗司――。当時の役職は、広島市議会議長で、市長の浜井信三氏と幾度となく上京している。その目的は広島平和記念都市建設法を国に認めさせることであった。カープへの実績とすれば、昭和32年、ナイター球場(旧広島市民球場)の建設にあたり、用地確保に貢献した人物である。

 

 かつて広島には大本営が置かれ、軍都として栄えた。練兵場などが置かれた関係上、焦土となった戦後に、そのまま未利用の国有地として残った。任都栗が目をつけたのは、復興最中の広島のこの国有地であった。これを無償で借り受けることができ、市民の施設として利用することができたら、「広島の復興は加速する」という思いだった。任都栗はこうした土地に関する嗅覚はすぐれており、石橋湛山(後の首相)らを学び、都市計画や街づくりには、一日の長があった。後に、自身の地元にある牛田中学校を誘致する際にも、土地を浅野家筋から無償で譲り受けた。ところが整地費用の予算がない。ならばと、自衛隊の訓練を誘致し、中学校用地の整地を行なうことを訓練の一環に組み込んで整地させるという、ウルトラCをやってのけた。

 

 その任都栗が、広島平和記念都市建設法を認めてもらうために、GHQにかけあっていた際、ダグラス・マッカーサーの秘書役ローレンス・バンカー大佐との面会で「本年(昭和24年)の元旦から、日本国旗を掲揚することをお許しいただき、ありがとうございました」と伝えたという。

 

 実際には、昭和24年の元旦から日本国旗の掲揚が許されていたというわけだ。任都栗はお礼を伝えながら、結果として、後の広島平和記念都市建設法へのGHQからの許可、いわゆる法律の施行にはアメリカとして関知せずの立場をとってもらい、国会での成立へとつなげていくのである。任都栗の日の丸の掲揚を大切にしたい気持ちは、さまざまな場面で人々を動かしていくのである。

 

メーデーの大事件

 昭和24年に許可をもらいながらも、国旗掲揚へのためらいが消えるまでには、独立後までかかったが、この年の5月1日、メーデーには、<血で彩られた獨立後初のメーデー>(「中国新聞」昭和27年5月2日)とあり、<とくに東京では「人民広場を奪還せよ」と荒れ狂ったデモ隊が皇居前から日比谷付近で警官隊と衝突>(「中国新聞」昭和27年5月2日)したのである。

 

 この騒ぎは<米軍司令部前の外人乗用車十五台、警察側ラジオカーなど三台、毎日新聞社ニュース・カー一台を破損><首謀者は共産分子>(いずれも「中国新聞」昭和27年5月2日)とされ、デモ隊に対し、警官隊も発砲を繰り返し、死者(1名)が出るまでになった。重軽傷者はデモ隊と警官隊を合わせて1000人を超えるという、流血の大惨事。また、メーデーの騒ぎは京都の裁判所前などでも発生し、また姫路では新聞記者が暴行を受けるなど、全国に波及していた。ただし、プロ野球には影響なかろうというのが、通常の思いだが、実はそうではなかった。

<プロ野球の放送も一時不能>(「中国新聞」昭和27年5月2日)

 

 この日、NHKラジオで午後1時15分から大阪球場での放送予定のプロ野球、松竹対大洋戦であるが、ラジオ放送にとって大事な南海電鉄高架下のケーブルが切られていた。

<ノコギリのようなもので切られ、垂れ下がっているのを発見した>(同前)とあり、結果、2時30分から短波放送に切り換えて、放送が復旧できたという。時勢を憂う人々の心に芽生えたうっぷんは、プロ野球にまで影響を及ぼしていたのだ。

 

カープ、独立後の第二戦

 流血にさらされた皇居前広場の事件をしり目に、カープの日本独立後の第二戦、阪神戦は通常通り開催された。

 

 そのマウンドに立ったのは、高卒新人の大田垣喜夫であった。初回、阪神はいきなり、ルーキーの大田垣に襲い掛かる。一、二塁の場面で、藤村冨美男の長尺バットがいきなり火をふいた。2人のランナーを還すタイムリーツーベース。初回に2点をあげ、ゲームを優位に進めた。前回の呉二河球場での活躍が、いい形で影響したのか、この試合でも藤村は長打を生んだ。

 

 それでも、カープは初回先制された後、この日、あまり球威がないとみた阪神先発、千場一夫から、先頭打者、白石勝巳(敏男)がヒットで出塁した。勢いに乗りたかった場面である。しかし、ここをダブルプレーで切り抜けられ、無得点に終わった。

 

 この日、カープの継投は早かった。早々と2点を失った新人大田垣を石本秀一監督は早々に諦め、社会人野球の熊谷組を経て、新しく入団した杉浦竜太郎にスイッチした。一方、阪神は千場の調子が上がらないとみて、内山清に継投した。この内山にまったく歯が立たず、カープの打線は沈黙した。

 

 そこにつけ込むかのように、また藤村がバットでみせた。8回にも快心の二塁打を放ち、1点を追加してダメ押しとした。

 0対3でゲームセット——。カープファンにとって、まったく見せ場のない試合となった。日本国独立後、阪神に2連敗とやられたのだ。

 

 さあ、このままで、いいのか――、カープ。大騒動の最中で行われた二戦目にも勝てず、行く先が見えない。さて、独立後の第三戦は、戦いの舞台を甲子園に移しての阪神戦。この試合は驚きの結果となる。乞うご期待。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和27年5月2日)、『カープ50年~夢を追って~』(中国新聞社)、『未完の平和記念都市』森上翔太(論創社)

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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