澤良木喬之(セガサミー野球部/愛媛県松山市出身)第3回「“ゴジラの宿命”――5打席連続敬遠」
春のセンバツで初出場初優勝、夏も初出場ながら決勝進出を果たした2004年は、まさに“済美イヤー”となった。無名だった同校の名が、瞬く間に全国のお茶の間に広がったことは想像に難くない。その年の秋、注目校となった同校の4番を任されたのが澤良木喬之だ。そのパワーは、1年時から澤良木と2人、レギュラー組に入っていた長谷川雄一(ヤマハ)、さらには最大のライバルだった今治西高の宇高幸治(日本生命)もが驚くほどのものだった。長谷川も宇高も、澤良木の一発に度肝を抜かされたことがある。3年間、チームメイトとして共に汗を流した長谷川は「第一印象は『でかい!』でしたね(笑)」と言い、こんなエピソードを語ってくれた。
「とにかく1年の時から打球の飛距離はすごかったですね。今でも忘れられないのは、2年秋の県大会、西条高と対戦した初戦で、あの広い坊ちゃんスタジアムのライトスタンドにホームランを打ったんです。それが、思いきり振り抜いた当たりじゃないんですよ。少し泳がされて片手でライトスタンドの最上段に運んだんです。あれにはビックリしました」
一方、高校時代、澤良木と共に県内随一のスラッガーとして名を馳せた宇高は、初めて対戦した時のことが忘れられないという。
「僕は今治市で、澤良木は松山市でしたから、会ったことはなかったのですが、彼の名は中学1年の時から知っていました。“松山にすごいバッターがいる”って噂になっていましたから。僕らが3年の春、練習試合で対戦したことがあったんです。『こいつかぁ……』なんて注目して見ていたんですけど、その試合で彼はライトにホームランを打ったんです。その飛距離がすごかった。ライトの奥にプールがあったんですけど、そのプールまで飛ばしたんです。『中学生でこんなに飛ばすヤツがいるのか……』と驚いたのは今でもハッキリと覚えています」
その澤良木が4番に君臨する済美には、1学年上には2年時に甲子園で春は優勝投手、夏は準優勝投手となったエース福井優也(広島)がいた。投打に強固な柱がいた済美は、澤良木が2年となった夏も県大会を制し、2年連続で甲子園出場を決めた。だが、上甲正典監督からは「4番として、オマエはチームの信頼を得ていない」という厳しい言葉を投げかけられたこともあったという。それほど大きな期待を寄せられていたという証だろう。
「監督の言う通りだと思いました。とにかく甲子園では汚名返上するぞ、という強い気持ちでいましたね」
気合いをみなぎらせて乗り込んだ甲子園、初戦の旭川工高戦で、そのチャンスがいきなり巡ってきた。済美は初回、相手投手の立ち上がりを攻め、無死満塁とした。打席には4番の澤良木。さすがの澤良木も、この時ばかりは足が震えたという。だが、その震えはプレッシャーからくるものばかりではなかった。
「1年生の時の初打席とはまた違った緊張感がありました。なんだか新鮮な感じがしたんです。初戦の初回、それも無死満塁で回ってくるなんて、自分はもっているなと思いました」
果たして澤良木はボールカウント1−1からの3球目、外角低めいっぱいの変化球を思い切り振り抜き、ライト前へ鋭い打球を飛ばした。2走者が返り、済美は2点を先制。主砲の一打で火がついた打線は、その後もタイムリーが続き、この回一挙5点を奪って、試合の主導権を握った。投げてはエース福井が旭川工打線に得点を許さない好投を披露し、済美は6−0で完封勝ちを収めた。
続く2回戦の相手は初出場の清峰高(長崎)だった。1回戦で春覇者の愛工大名電高を延長戦の末に破った清峰は、勢いに乗っていた。一方、済美はエース福井の調子が上がらなかった。2回、3四死球で2死満塁とすると、連打を浴びて4失点。上甲監督は早くもエースをマウンドから降ろした。しかし、代わった2番手投手も失点を喫し、清峰にこの回一挙5点を奪われた。早めに追いつきたい済美だったが、後に澤良木が大学でチームメイトとなるサウスポーの古川秀一(オリックス)に、打戦は4回まで無得点と苦戦した。5回裏、一発で2点を返し、7、9回と1点ずつを上げた済美だったが、7回表、1死一、二塁のピンチに再びマウンドに上がった福井が清峰の主砲に手痛い一発を見舞われた。結局、済美は4−9で2回戦敗退となった。澤良木自身、4打数無安打2三振と、古川に完敗を喫した。
ドラマ尽くしの“秋の陣”
チームは2回戦で姿を消したが、初戦での澤良木の活躍は彼の名を全国区へと押し上げるのに十分だった。体格、風貌、左打席で立つ姿に松井秀喜を重ねた者は少なくなかった。
「伊予のゴジラ」
いつしか澤良木はそう呼ばれるようになっていた。そして2年秋の四国大会、あの“事件”が起こった――。
最終学年となった澤良木は「エースで4番」と、まさにチームの大黒柱となった。そして秋の県大会では投げては防御率1.42の好投、打っても打率8割、10打点、2本塁打と、投打ともに大活躍。チームを優勝に導き、夏に続いての甲子園出場を目指すべく、四国大会へと臨んだ。初戦は徳島3位の鳴門工だった。「とにかく、バットに当たれば飛んだ」という本人のコメントからもわかる通り、澤良木はまさに絶好調だった。だが、それが災いとなった。1打席目、いきなりの敬遠。さらに2打席目も敬遠。そして3打席目、4打席目も澤良木は、一球もストライクゾーンに投げてはもらえず、ただ黙って一塁へと歩くしかなかった。
「徳島から何しに来たんだ!」
「堂々と勝負しろ!」
スタンドからは鳴門工のピッチャーへの罵声が飛び交った。だが、当の本人はいたって冷静だった。
「センバツがかかっていましたから、とにかくチームの勝利だけを考えていました。バッターとして勝負してもらえないのなら、自分はピッチャーとして頑張ろうと」
結局、澤良木は5打席連続敬遠。最後の5打席目は上甲監督からの指示もあり、澤良木は3ボールからの4球目を思い切り振った。これにスタンドは大きく沸いた。だが、鳴門工のキャッチャーが座ることはなかった。誰もが1992年、夏の甲子園を思い出したことだろう。全国随一のスラッガーと称された松井が、5打席連続敬遠となり、星稜高(石川)が明徳義塾高(高知)に敗れ去った、あの一戦である。
だが、結末は違った。主砲が敬遠されて意気消沈した星稜とは異なり、済美は澤良木が敬遠されても1点差で逃げ切り、勝利を収めたのだ。しかし、その試合でわずか1度しかバットを振らなかった澤良木には異変が生じていた。1週間後の準決勝、澤良木は1本もヒットを打つことができずに終わった。県大会で彼に降りてきていた“打撃の神様”はいつの間にか消え去ってしまっていたのだ。ピッチャーとしても6回までに4失点とエースの責任を果たせず、済美は徳島の覇者・小松島高に1−5で敗れた。こうしてドラマ尽くしの“秋の陣”が終わり、澤良木は最後の夏を迎えた。そこで、彼は一球の怖さを知ることとなる――。
(第4回につづく)
<澤良木喬之(さわらぎ・たかゆき)プロフィール>
1988年7月23日、愛媛県生まれ。小学4年から地元のソフトボールチームに入り、高学年時には「エースで4番」として活躍。中学時代は軟式野球部に所属した。済美高校では1年夏からベンチ入りし、甲子園に出場。チームは準優勝を果たす。同年秋からは4番に抜擢され、“伊予のゴジラ”として注目された2年夏の甲子園は2回戦敗退。3年時には「エースで4番」としてチームを牽引した。高校通算本塁打数は51本。日本文理大学では1年時から4番に座り、2年、3年時にはチームを全日本大学選手権出場に導いた。2011年4月、セガサミーに入社。184センチ、97キロ。左投左打。

(斎藤寿子)