高知県の西部を流れる四万十川は、日本三大清流の一つで、全長約200キロメートルの雄大さと、自然豊かな美しい景観を誇る。澤良木喬之の父親・宏之は、その四万十川の近くで生まれ育った。澤良木が小学生の頃、年末年始は父親の実家で過ごした。そして、四万十川の河川敷にある広大な原っぱで、キャッチボールやサッカーなどを、父と2つ年上の兄とするのが年明けの恒例行事となっていた。それが澤良木の野球人生の原点である。
「喬之はいつも兄の宏輔の後を追っかけて、何でもマネしていましたね。おっとりした性格の宏輔とは違って、喬之はとにかく負けん気が強かった。宏輔は競争しているつもりはなくても、喬之は『お兄ちゃんには負けたくない』と、マネしながらも一生懸命に兄と競っていましたね」
 そう言って、父・宏之は電話越しに懐かしそうに笑った。兄へのライバル心が、澤良木の成長を促した要因の一つとなったことは想像に難くない。

 兄の後を追いかけるように、澤良木は小学4年で地元のソフトボールチームに入った。小学6年になると、「エースで3番」が澤良木の不動のポジションとなった。打って、投げてと、まさにチームの大黒柱。彼の活躍もあり、チームは大会に出れば、勝ち進んだ。そのため、土日はほとんど試合でつぶれたという。「1年で80試合くらいはしたんじゃないかな。公式試合があまりにも多くて、練習試合を組むこともできないほどでしたよ」と父・宏之。澤良木が小学5年の時から、ほぼ全試合に帯同したという彼は、毎回のようにスコアをつけ、子どもたちのデータ収集に勤しんだ。プロのスコアラー顔負けの熱心ぶりだった。

 とはいえ、自分の息子がプロを狙えるほどの器だとは、当時は全く思っていなかったという。当時から将来を嘱望されていた澤良木に対し、周囲は「今後が楽しみだ」と大きな期待を寄せていた。もちろん、その声は父・宏之にも届いていた。だが、父親としては「高校、大学とそこそこいい所でやれればいい」とくらいにしか思っていなかったという。だが、そんな宏之をも心密かに喜ばせたひと言があった。それは、審判員からのものだった。小学6年の時の地元の大会で優勝した際、ある審判員から「あの子は愛媛の宝だね」と言われたのだ。この言葉は今も鮮明に覚えている。
「我が息子ながら、鼻が高くなってしまいましたよ(笑)」
 古くは景浦将、千葉茂、藤田元司、そして現役では藤井秀悟(横浜)、岩村明憲(東北楽天)、越智大祐(巨人)と、愛媛県はこれまで数多くのプロ野球選手を輩出してきた“野球王国”だ。澤良木はその“宝”と称されたのだ。親として、どれだけ誇らしく思ったことか……。

 さて、本人はというと、小学6年の最後の試合が終わると、翌日からは硬式のシニアチームの練習に加わった。練習初日、いきなり練習試合に出場させられた澤良木だったが、ソフトボールから硬式野球へのとまどいを全く感じさせないプレーを見せた。そのままチームに残っても、十分にレギュラーになることができただろう。だが、澤良木は中学校に入学と同時にシニアチームを辞め、中学校の軟式の野球部に入った。野球部が強かったわけでは決してない。にもかかわらず、なぜ、澤良木はシニアチームではなく、中学校の部活動を選択したのか。その理由を父・宏之は次のように語ってくれた。
「シニアチームの練習は週末だけでしたから、平日は野球と離れてしまう。それが喬之には嫌だったんです。軟式でもいいから、とにかく野球を毎日やりたいと思ったようですね」
 それほど野球が好きだったのだろう。そして、澤良木にとって野球は生活の一部と化していたのだ。

 中学校の野球部では、なかなか勝つことができなかった。それでも顧問の先生は澤良木の将来を見据え、厳しく指導してくれた。
「当時はがむしゃらに、楽しんで野球をやっていたという感じでしたけど、今思えば中学の3年間が今の自分の基礎になっているのかなと思いますね。先生は礼儀を始め、すごく厳しく指導してくれました。よく『オマエは上を目指さなくてはいけないんだから、やることをちゃんとやって、しっかり頑張れ!』と言われていましたね」

 そんな先生の言葉にも影響を受けたのだろう。澤良木は中学2年の頃になると、プロへの気持ちを強く抱くようになった。当時、ジャイアンツファンだった澤良木は、チームの主砲として活躍していた松井秀喜の豪快で勝負強いバッティングに憧れた。同じ“ゴジラ”と呼ばれる3年前のことだった。

(第3回につづく)

澤良木喬之(さわらぎ・たかゆき)プロフィール>
1988年7月23日、愛媛県生まれ。小学4年から地元のソフトボールチームに入り、高学年時には「エースで4番」として活躍。中学時代は軟式野球部に所属した。済美高校では1年夏からベンチ入りし、甲子園に出場。チームは準優勝を果たす。同年秋からは4番に抜擢され、“伊予のゴジラ”として注目された2年夏の甲子園は2回戦敗退。3年時には「エースで4番」としてチームを牽引した。高校通算本塁打数は51本。日本文理大学では1年時から4番に座り、2年、3年時にはチームを全日本大学選手権出場に導いた。2011年4月、セガサミーに入社。184センチ、97キロ。左投左打。






(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから