2006年夏の甲子園決勝、再試合にまでもつれ込んだ早稲田実業高と駒大苫小牧高との熱闘は今も記憶に新しい。その試合を澤良木喬之は自宅のテレビで観ていた。早実のエース斎藤佑樹(北海道日本ハム)とはその年、夏の予選前に練習試合で対戦し、澤良木は斎藤からホームランを放っている。その時はまさか、全国制覇をするようなピッチャーだとは思っていなかったという。そして自分自身についてもまた、県大会準決勝で敗退するなどとは考えていなかっただろう。まさか、あの“一球”に泣かされるなどとは想像だにしていなかった――。
 高校3年の夏、澤良木は多少の肩の痛みはあったものの、それでも自分自身、エースとしての成長を感じていた。冬の間、下半身強化で走り込んだため、スピードもコントロールもよくなっていたのだ。また、打者としても進化していた。当時、キャプテンを務めていた長谷川雄一(ヤマハ)は、澤良木の成長ぶりをこう語っている。
「3年の春、監督から『引っ張らずに逆方向に打て』と指示されていたのですが、その頃から澤良木は左中間にホームランを打つようになったんです」
 こうして投打ともに夏3連覇に向けての準備は万端だった。“エースで4番”の澤良木と、攻守にわたってチームを支えるキャプテンの長谷川を中心に、済美高は順当に県予選を勝ち進んだ。そして、甲子園まであと2勝と迫った準決勝、済美は春の四国大会を制した今治西高と対戦した。今治西には、澤良木とともに愛媛を代表するスラッガー宇高幸治(日本生命)がいた。

 中学時代から澤良木のパワーの凄さを感じていた宇高は、自分たちが甲子園に行くために乗り越えなければいけない最大の壁は澤良木と考えていた。3年間、「打倒・澤良木、打倒・済美」を目指してきたのだ。そして、迎えた最後の夏の準決勝、ようやく高校では初めて澤良木擁する済美との対戦となった。宇高が気合いが入らないわけはなかった。だが、打席に立つと、澤良木の気迫に圧倒されてしまったという。
「マウンド上の澤良木は『オレらが絶対に甲子園に行くんや!』という気迫がみなぎっていました。バッターボックスに立つと、体全体で向かってくるような感じがしたんです」

 実際この日、澤良木は絶好調だった。7回まで5安打無失点。6回までは三塁さえ踏ませない好投で今治西打線を封じた。試合は2−0と済美がリード。澤良木の調子を考えれば、試合はほぼ決まったかに思われた。ところが、ドラマが待っていた。わずか“一球”で、流れが突然、変わったのだ。

 8回、澤良木は簡単に2死を取り、打席に宇高を迎えた。
「宇高を抑えれば、あとは最終回のみ。よし、ここが勝負どころだ」
 気合いみなぎる澤良木に対し、この試合、無安打に抑えられていた宇高は「この打席が最後になるかもしれない」という気持ちで打席に入った。2ストライクに追い込まれた宇高は、次の球をストレートと読んだ。自信を持って振りに行った宇高だったが、ボールはバットにかすりもしなかった。澤良木が投げたボールはストレートではなく、キレの鋭いスライダーだったのだ。

「えっ!? 消えた?」
 一瞬、ボールを見失った宇高は、そのままバットを振り切るしかなかった。空振り三振。宇高は「終わった……」と思った。ところが次の瞬間、相手のキャッチャーがボールを後逸しているのが見えた。あわてて宇高は一塁へかけこんだ。結果は「三振振り逃げ」。一塁ベース上の宇高はしばらくの間、何が起きたのか、頭の整理がつかなかった。澤良木のスライダーはあまりのキレのよさにバッターボックスの前でワンバウンドし、それにキャッチャーが対応することができなかったのだ。

 しかし、相手のエラーに助けられ、アウトにはならなかったとはいえ、宇高自身が三振を喫したことには変わりはなかった。
「その時はまだ、その後、何が起きるか全く想像できていませんでした。流れはまだ済美にあると思っていましたから、『あぁ、せっかく最高のライバルとの初対決だったのに、自分はノーヒット。しかも、最後があんなかっこ悪い三振だなんて……』という悔しさでいっぱいだったんです」

 一方、自分のベストボールでライバルを打ち取りながら、味方のエラーでランナーを出した澤良木だったが、宇高同様、流れはまだ自分たちにあると思っていた。
「宇高が振り逃げで一塁に進んだ時、特にあわててはいませんでした。嫌な雰囲気も感じていなかったですし、いけるだろうと思っていたんです」
 だが、2人が考えていた以上に、この一球はその後の明暗を分ける重要なものとなった。

 普段は味方のエラーにも動じない澤良木だが、やはりこの時は無意識にもショックを受けていたのだろう。宇高の後、連打を浴び、同点とされてしまう。9回も先頭打者にヒットを打たれた澤良木は降板し、ファーストへと下がった。だが、2番手ピッチャーにも今治西の勢いを止めることはできず、2点を奪われてしまう。そして1死満塁のピンチに、澤良木は再びマウンドへ上がった。思いっきり腕を振って投げたボールは、きれいに弾き返され、走者一掃の三塁打。この回、一挙5点を奪った今治西は、最終回、2年生エース熊代聖人(埼玉西武)がきっちりと無失点に抑え、劇的な逆転勝ちを収めた。喜びを爆発させる今治西ナイン。その脇で済美ナインは信じられない結末に、ただただ涙を流すしかなかった。夏本番を直前に控えたその日、澤良木の高校野球が終わった――。

 気持ちを吹っ切らせた最後の一打

 高校卒業後、澤良木は大分の日本文理大学へと進学した。初めて実家を離れ、未知の世界へと飛び込んだ澤良木だったが、同大野球部には2つ上の兄が所属していたこともあり、すぐに溶け込んだという。同大の野球部は部員約200人という大所帯。それでも完全に野手へと転向した澤良木は、1年春から4番を任された。最初は金属から木製に代わったバットに苦戦したが、コツをつかむと、金属と変わらない飛距離を飛ばすようになっていった。

 2、3年時には日本代表の候補合宿にも呼ばれた。メンバーには斎藤や大石達也(埼玉西武)、澤村拓一(巨人)ら大学球界を代表する投手陣がズラリと顔を揃えていた。
「東京の大学生は硬いイメージがあったんですけど、実際に話をしてみると、同じ大学生だなと思いましたね。すぐに仲良くなりました。でも、野球のレベルはやっぱり高かったです。特にピッチャーはみんな、いい球を投げていて、大石や澤村なんかは独特のキレがありました。今思えば、あれがプロにいく球なんだなと思いますね」
 彼ら同様、澤良木ももちろんプロを目指していた。高校時代から“伊予のゴジラ”の異名をもち、大学でもしっかりと実績を残した澤良木は、4年時にはドラフト候補に名前が挙がっていた。澤良木は迷うことなく、プロ志望届を提出した。そして、運命の日を迎える。

 2010年10月28日、プロ野球ドラフト会議。澤良木が指名されるか否かは、五分五分と見られていた。澤良木はじっと静かに“その時”を待っていた。斎藤、大石、澤村、そして済美高の先輩である福井優也(広島)らが1位指名され、他の同級生たちも次々と名前が呼ばれていった。だが、澤良木の名前は出てこない。そして会議が始まって約3時間後、全12球団の画面に「選択終了」の文字が並んだ。結局、澤良木の名前が呼ばれることはなかった。翌日には、全国大会の出場権がかかった大一番が待っていた。

 第17回九州大学野球選手権決勝トーナメント。この日、準決勝、決勝とダブルヘッダーを制すれば、明治神宮大会への出場権を得られることになっていた。日本文理の準決勝の相手は九州六大学1位の九州国際大学。その九国大が2回に1点を先制したが、その後は両者ともに得点を奪えず、ゼロ行進が続いた。日本文理は6戦全勝した大分県リーグや九州地区大学野球選手権で見せた破壊力満点の攻撃力をもつ打線が沈黙。こうした投手戦にこそ流れを変える主砲の一発が期待されたが、澤良木は1打席目こそヒットを打ったものの、スタンドにまで快音を響かせることはできなかった。結局、最後まで日本文理は得点することができず、0−1で敗退。澤良木の大学4年間が幕を閉じた。

 有終の美を飾ることができず、「ドラフトの翌日で、完全に気持ちを切り替えられていなかった」という反省の言葉を口にした澤良木だが、その試合で自分自身の成長の跡もしっかりと見えていた。1点ビハインドで迎えた最終回、2死無走者で澤良木に打席が回ってきた。そこで澤良木は同点のアーチを描くことはできなかったが、ヒットを放ち、4番の意地を見せたのだ。最もプレッシャーのかかる打席でのヒットは、澤良木の大きな自信となった。そして、その一振りでようやく「よし、次は社会人で頑張ろう」と気持ちを切り替えることができたのだ。

 人間的成長が見えた社会人1年目

 昨春、澤良木はセガサミーに入社した。プロという目標をもち、遠路はるばる東京の地に降り立ったのは1月初旬のことだ。そしてその年の春、澤良木とすれ違うかのように東京を離れ、大阪へと向かった男がいた。高校時代からのライバルであり、そして今はよき友でもある宇高だ。宇高は早稲田大学で2年春からレギュラーの座をつかみ、春夏とベストナインに選出された。だが、3年時に突然のスランプに陥り、4年時にはケガで思うようなプレーができなかった。そして、その年の秋、宇高の名前もまた、ドラフト会議の会場で響き渡ることはなかった。そして、澤良木同様、プロへの道を切り拓くため、社会人の名門・日本生命に入社したのだ。

 2人は昨年、オープン戦で2度、顔を合わせている。宇高は1度目の対戦が忘れられないという。
「試合前に少し話をしたんです。僕が『結構、試合に出させてもらっている』と言ったら、澤良木は『オレはまだあまり出てないんや』と言っていました。でもその試合は逆でした。澤良木はスタメンで出場したのに、僕はベンチスタートだったんです。しかも、試合に出ていないと言いながら、澤良木は1打席目でいきなり逆方向の左中間にホームランを打ったんです。改めて、彼のすごさを思い知らされました」
 そして、宇高はこう続けた。
「でも、同時に負けたくないと思いましたよ。パワーではとてもじゃないけど、勝てませんが、バットコントロールなら負けてはいません。これには絶対の自信を持っています」
 今年、公式戦では高校3年の夏以来となる対戦が待ち遠しい。

 もう一人、澤良木との対戦を楽しみにしている選手がいる。済美で3年間、共に汗を流した長谷川だ。彼は近畿大学から昨春、ヤマハに入社した。
「パワーや飛距離では澤良木が上です。でも、スピードや守備、打率に関しては、絶対に負けません。大学時代は一度も対戦することがなかったので、社会人で澤良木と対戦するのが楽しみですね。それが都市対抗の決勝で日本一を争う舞台であれば、最高です」

 当の澤良木は昨年、レギュラー争いに加わることができずに終わった。小学校時代から試合に出場することが当然だった彼にとっては苦しいシーズンになったことは想像に難くない。ベンチ裏で観ることしかできなかった都市対抗では、その華やかな雰囲気と会社が一体化した応援、そしてチームメイトの必死のプレーを目の当たりにし、「来年こそは、この舞台に立って、チームの勝利に貢献したい」と一人、決意を新たにしていた。

 だが、こうしたこれまでに経験したことのないシーズンを送ったことが、彼を成長させた要因ともなっていた。社会人1年目の感想を訊くと、澤良木は「人間的な部分での成長」を一番に挙げた。
「先輩方にはたくさんのことを教えてもらいました。特に人との付き合い方に関しては、大学の時には見えていなかった部分が見えるようになったりと、自分でも日々の成長を感じることができました」

 実はもう一人、その“成長”を感じている人がいる。父親の宏之だ。この年末、澤良木が帰省した際、親子は済美のグラウンドに行ったという。この1年、息子のバッティングを見る機会がなかった父・宏之が「久しぶりにスイングを見せてくれ」と声をかけたのだ。グラウンドには上甲正典監督がいた。高校時代、厳しい監督とは会話という会話はほとんどなかった澤良木だが、社会人となった今は東京での暮らしぶりなど、時折、笑顔を見せながら話をした。そんな息子の様子を、父親は頼もしく感じながら見ていた。

「上甲監督と話をしている喬之を見て、改めて『社会人として働き始めたんだなぁ』と思いましたね。高校時代は全く頭が上がらなかった監督と、ちゃんと話をしているんですからね。なんだか感慨深いものがありましたよ。上甲監督も驚いていました。『こんなに、きちんと話せるようになるとは思っていなかった』って(笑)」

 その父親が名づけた『喬之』の『喬』には、「高くそびえる」という意味がある。野球の技術はもちろん、精神的にも今、澤良木はまさに上へ上へと向かっている真っ只中だ。その頂には中学生時代から抱き続けてきたプロという目標がある。今はまだ届きそうで届かない雲のようなものかもしれない。だが、近い将来、澤良木はきっと雲をも突き抜け、新たな世界を見渡すことになるだろう。社会人2年目の今年、“伊予のゴジラ”が目を覚ます。

(おわり)

澤良木喬之(さわらぎ・たかゆき)プロフィール>
1988年7月23日、愛媛県生まれ。小学4年から地元のソフトボールチームに入り、高学年時には「エースで4番」として活躍。中学時代は軟式野球部に所属した。済美高校では1年夏からベンチ入りし、甲子園に出場。チームは準優勝を果たす。同年秋からは4番に抜擢され、“伊予のゴジラ”として注目された2年夏の甲子園は2回戦敗退。3年時には「エースで4番」としてチームを牽引した。高校通算本塁打数は51本。日本文理大学では1年時から4番に座り、2年、3年時にはチームを全日本大学選手権出場に導いた。2011年4月、セガサミーに入社。184センチ、97キロ。左投左打。






(斎藤寿子)
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