第822回 永久欠番で見る昭和プロ野球史
米野球殿堂入りに続く快挙である。イチローの背番号「51」がマリナーズの永久欠番となった。日本人選手の背番号が、MLB球団で永久欠番に指定されたのは、初めてである。
ちなみにMLBにおける永久欠番第1号は、2130試合の連続出場記録(当時)を保持していたヤンキースのルー・ゲーリッグ。難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されていたゲーリッグは、1939年7月4日、本拠地のヤンキースタジアムで執り行なわれた引退セレモニーにユニホーム姿で現れ、「今日、私はこの地球上で最も幸せな男だといいたい」と涙ながらにスピーチした。
併せて、彼が付けていた背番号「4」の永久欠番が発表された。ゲーリッグは、この2年後、37歳の若さで鬼籍に入った。
日本球界に目を転じれば、永久欠番第1号は、巨人の黒沢俊夫と沢村栄治である。背番号は「4」と「14」。
伝説の大投手・沢村に比べて影が薄いのが黒沢だ。元々は金鯱軍の出身。巨人では、わずか3シーズンしかプレーしていないにもかかわらず、黒沢の「4」が永久欠番に指定された背景には、腸チフスに冒されながらも試合に出続け、33歳で悲業の死を遂げたことに対する報恩の情があったと言われている。黒沢は「自分が死んだら巨人軍のユニホームのまま葬ってほしい」という言葉を残している。
その年のNPBで最も活躍した先発完投型のピッチャーに贈られる「沢村栄治賞」に名を刻む沢村の偉大さについては、改めて説明の必要もないだろう。
1934年11月20日、静岡市草薙球場で行なわれた日米野球第10戦、弱冠17歳の沢村は、ベーブ・ルースやゲーリッグのいる全米オールスターチームに0対1と好投した。1失点はゲーリッグに喫したホームランだった。
その沢村、44年12月2日、門司港からフィリピンに向かう途中、東シナ海で敵の魚雷を受け戦死した。まだ27歳だった。
戦後80年、プロ野球の歴史は「永久欠番」とともにある。
<この原稿は2025年9月8日号『週刊大衆』に掲載されたものです>
