西本恵「カープの考古学」第100回<カープを救った“単月エース”渡邊信義編その4/勝てぬエース長谷川の窮地に台頭>
カープ創設3年目のシーズン、夏場戦線はある一人の人物によって、見どころのある戦いが繰り広げられた。その立役者が広島県庁の土木課出身、軟式野球における速球投手である渡邊信義である。前年の昭和26年に、異例ともいえる夏場のテスト入団であった。戦力の乏しいカープにおいて、特に投手陣のやりくりには苦労した。辛抱しながら、1年間リリーフ登板で使い続けた石本秀一監督であるが、育てると決めたら育てる――。使いながら育て、育ったならば使い続ける。
ヘルシンキ五輪での水泳日本
時を同じくして、日本国中の期待が高まったのが、ヘルシンキ五輪における水泳競技である。古橋廣之進と橋爪四郎。戦前に築き上げた“水泳日本”を世界に見せつける大会と期待された。
しかし、ヘルシンキ五輪では、古橋はふるわなかった。400メートル自由形で8位。<全世界に超人ぶりをうたわれた古橋は、待ちに待ったヘルシンキで、ついに往年の「トビウオ」ぶりを発揮できず悲運の中に「水の王座」を退かなければならなかった>(「中国新聞」昭和27年8月1日)
あの名実況、「日本のみなさん、どうか古橋をせめないでください」は、この時のラジオ実況により生まれたという。
また、“もう一人のトビウオ”と称された橋爪は1500メートル自由形で18分41秒4をマークし、かろうじて銀メダルを獲得した。
ヘルシンキ五輪に期待が寄せられるには理由があった。
昭和24年8月、ロサンゼルス・オリンピックプールで開催された全米水上選手権において、共に日本大学で水泳に磨きをかけた古橋、橋爪が世界を凌駕するごとく活躍を見せた。2人が叩き出した世界記録には、アメリカのみならず世界中から注目が集まった。古橋1500メートル自由形18分19秒0、400メートル自由形4分33秒4、橋爪1500メートル自由形18分35秒7(予選A組:一時的に世界新)をはじめ、400メートル、800メートル、800メートルリレーすべてで古橋は世界新記録を打ち立てた。圧倒的な強さに世界が日本を認めた。大会直後、ロサンゼルスのリトルトーキョー周辺の通りをパレードした。
その際、ロサンゼルス市長からの言葉を古橋はこう記している。
<「キミたちの活躍ぶりを見たいと思いながら、入場券が買えない人が大勢いる。そこでメインストリートの交通を全面ストップするから、パレートをやってほしい」>(『熱き水しぶきに とびうおの“航路”』古橋廣之進著・東京新聞出版局)
さらに市長にあっては驚きの行動に出た。<なんと、反日感情の象徴ともいえる「日の丸を掲げてパレードしてもらいたい」というのだ>(同前)
占領下の日本への厳しい目線がある中、蔑称ジャップと言われた。偏見と敵愾心のうずまく本土アメリカにおいて、ジャップがジャパニーズと正され、古橋にあっては、日本最高峰の山、富士山にならい、“フジヤマのトビウオ”と称された。アメリカのヒロイズムを凌駕し、水泳日本の地位を確固たるものとしたのだ。
認められない世界記録
しかし、この水泳日本の復活においては、悔しく、また苦しい日々の前段があった。日本のスイマーに対し、多くの疑いの目が向けられていたからだ。戦後の参加を許されなかった昭和23年ロンドン五輪。日本は水泳界のみならず、スポーツ界に忸怩たる思いがあった時期である。
参加できないのならば、自分たちで開催すればよいとばかり、日本選手権水泳競技大会をロンドン五輪の大会に合わせるかのような時期に開催したのである。後に“もう一人のトビウオ”と称される橋爪の出した1500メートル自由形18分37秒8という記録は、ロンドン大会金メダリストのタイム(19分18秒5)を40秒7も上回り、世界を驚かせた。
当然ながらエース古橋は、1500メートル自由形(18分19秒0)のみならず、400メートル自由形(4分33秒4)においても、ロンドン大会での金メダル記録を上回る驚異的な記録で、水泳日本をゆるぎないものとした。
ところが、である。
日本の記録を認めようとしない世界の国々の評価は惨憺たるもので、逆に悪評が触れ回る始末だった——。
まずはプールにケチがついた。
<日本のプールはアメリカより短いのだろう>(『地球ひと周り半』古橋廣之進著・1986年ベースボール・マガジン社)
さらに、時計にも。
<日本の時計は回るのが遅いのだ>(同前)
極めつけは、泳ぎにいたる。
<ターンを一回忘れているのでは>(同前)
水泳日本の復活とはいえなかった。占領下の日本への風評はひどく、世界記録を打ち立てても、遠く海で閉ざされた日本のみの記録として、認められなかった。幻の世界記録とされ、戦後の記憶によりかき消され、世界の水泳界から闇に葬られた。
こうした厳しい評価を被ったのは、当然ながら、第二次世界大戦の敗戦により、日本の孤立していた国際情勢によるものである。日大水泳部で切磋琢磨し、古橋、橋爪らのスイマーとしての最高潮にあった時期の記録が幻の世界記録となっていたのだ。
時を経て、堂々たる泳ぎを見せるはずであった古橋、橋爪らはヘルシンキ五輪がピークを下り始めた時期だったため、力及ばなかった。古橋にあってはアメーバ赤痢という病を乗り越えての参加だった。必ずしも選手のピークが、世界の政治的に良好な時期と一致するとは限らないのだ。
そもそもの原因は長谷川か——
スポーツ選手のピークは突然のごとくやってきて、突然のごとく去ってしまう。この年のカープでは、渡邊が単月ながらエースの称号を得て、わずか1カ月と1週間あまりで6勝も挙げた。絶えず存続の危機にさらされたカープであったが、単月エースとして、短いピークの中で孤軍奮闘の働きをした。そもそも渡邊の登板日が増え、投げなければならない最大の理由となったのが、カープのエース長谷川良平の不在にあった。
昭和27年、シーズン前の出来事に大きく起因する。長谷川はキャンプ練習をしていないのだ。シーズン直前の2月から3月までは、長谷川の引き抜きをもくろむ名古屋軍からかくまわれ、移籍寸前のところで、広島に連れ戻すことに成功した。それはセントラルリーグ開幕前日のことであった。その間、練習をしていない長谷川は青白く痩せこけ、当然ながら投げられない。エースの穴は、代役で埋めるしかなかった。
長谷川は8月23日、岡山で事件の発端となった名古屋軍を相手にリリーフとしてマウンドに上がるが、その日まで、わずか4勝(14敗)だった。ここぞというところで勝てなかった。加えて、カープは名古屋軍にはまったく歯が立たない。0勝9敗1分と、アマチュア対プロとも表現できるほど、負け続ける日々だった。名古屋軍はあの天下の宝刀フォークボールを繰り出すエース、杉下茂が先発であった。対するカープは新人の大田垣喜夫をマウンドに送った。
カープは同一チームに引き分けを挟んで10連敗をしかねない窮地に立たされた中で、杉下を立ち上がりから攻め立てる。名古屋軍のエラーもあり、4番の門前眞佐人、5番の岩本章がヒットを重ね、1回裏に3点をあげ、先制する。さらに3回裏には長持栄吉の二塁打で1点を加えた。6回にも1点を追加した。
追いすがる名古屋軍は3回と6回に1点ずつ加えると、7回には2点をあげ、1点差に迫る4対5とした。
7回裏のカープは、この日好打が光る門前の二塁打などで3点をあげ、試合を決定づけた。杉下を降板させた。守っては継投策。高卒新人の大田垣のスタミナを配慮してか、早めに長谷川をマウンドに送った。6回まで両投手で4安打に抑えたことにより、勝運を逃さなかったのである。
8月末のこの日まで、名古屋軍に勝てなかったカープであるが、<広島、名古屋に初の白星>(「中国新聞」昭和27年8月24日)とシーズンも終盤戦にさしかかる前にやっと明るい兆しが見えた。
さあ、カープの3年目のシーズンは終盤に入る、ヘルシンキ五輪の賑わいの中で、やっとの光明が見えはじめた。中盤の夏場戦線から終盤の秋戦線にうつる中、渡邊信義をはじめ、投手陣が奮起するのだろうか、次回のカープの考古学にご期待あれ。
【参考文献】
『カープ50年―夢を追って—』1999年(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和27年8月1日、24日)、『熱き水しぶきに とびうおの“航路”』(1986年古橋廣之進著・東京新聞出版局)、『地球ひと周り半』(1986年古橋廣之進著・ベースボール・マガジン社)、『日本スポーツ放送史』(1992年橋本一夫著・大修館書店)、『古橋廣之進 力泳三十年』(1997年日本図書センター)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。