今年3月に右アキレス腱断裂の大ケガを負い、リハビリに励んでいた川口能活(磐田)が公式戦のピッチに戻ってきた。
12月15日、天皇杯4回戦。鹿島アントラーズを相手に3失点を喫して敗れたが、シュートを横っ跳びで食い止める見せ場もあった。「(実戦から)9カ月離れていた割には(シュートに対する)反応は良かった」と来季に向けて手ごたえをつかんだ様子だった。
サッカーに対する情熱は衰え知らず、だ。
だが、さすがに今回のケガは川口に精神的なダメージを与えていた。
「気持ちを立て直すまでに、ちょっと時間がかかりましたね。もう今は前向きにやれていますけど(笑)」
リハビリ中の7月に川口を訪ねたとき、彼は口許に笑みを浮かべながらそう言った。
パフォーマンスの良かった昨シーズンを上回ることができる自信が今季はあったため、その分ショックも大きかった。それでも、もう一度、前向きになれたのは昨年8月、急性心筋梗塞で練習中に亡くなった松田直樹の存在だった。
「アキレス腱をやってしまったときは言葉で表現できないほど辛かった。でもマツのことを思うとね……アイツはサッカーがやりたくてもできない。そう思ったら、マツの分までやんなきゃって。僕が復帰に向けてどう戦っているかを、アイツもきっと見ていると思うんです」
川口と松田は盟友だ。年は川口がひとつ上だが、松田が横浜マリノス(現横浜FM)に入ってくるとすぐさま友人になった。
「“能活くん”と呼んでくれたのは最初だけ。1年後輩なのに、あとは“ヨシボウ”って呼び捨てですよ。プレーは凄いけど、生意気だし、態度は大きかったですね(笑)」
試合の前々日には何人かでドライブして夜景を見に行くことが恒例になったという。
「お互い10代の終わりか20代のはじめのころで、未来を切り開いてやろうっていう希望に満ちた時代に一緒でしたから……」
青春の思い出を、川口は懐かしそうに振り返った。
マリノスだけでなく、代表でも一緒だった。アトランタ五輪のマイアミの奇跡、2000年アジアカップの優勝……どちらかがレギュラーで、一方がサブという状況も続いたが、同じ空気を吸ってきた。
川口にとって松田は誰よりも信頼を置いていたディフェンダーだった。
「普段のマツとプレー中のマツはまったくの別人。冷静でかしこくて技術も高い。それでいて強いから、1対1で負けないんです。僕がマツのプレーに怒ったというのは、アイツが気を抜いたときだけでしたよ」
お互いにベテランという立場になって、川口も松田もベテランが冷遇される境遇を自分たちの力で変えようとしていた。お互いにそういう気持ちであることは分かっていたし、2人は盟友であるとともに、ライバルでもあった。「俺が世の中に認めさせてやる」といい意味で張り合っていたように見えなくもなかった。
だからこそ、川口は松田の思いを乗せて戦う。
彼はこう言っていた。
「年齢とともに肉体的なものが衰えていくことは当たり前なのかもしれないけど、僕は認めたくない。マツもそう言ってやってきましたし、決して受け入れようとはしなかった。僕が第一線でやり続けることでアイツの名前も残せる。自分のため、戦友のため。これは僕がやらなきゃならないこと」
プロ20年目を迎え、38歳になる2013年、川口能活の反撃が始まろうとしている。
(この連載は毎月第1、3木曜更新です)
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