サッカーは国民性の表れるスポーツ――。
サッカー小僧として物心がついたときから現在に至るまで、ついぞ疑ったことはなかった。
なぜドイツはあれほど正確かつダイナミックなのか。ドイツだから。なぜブラジルはあれほど奔放で魅力的なのか。ブラジルだから。日本サッカーの未来に世界一緻密で繊細なパスワークを期待してしまうのも、理由は同じく、日本人だから、だった。
ただ、個人的にどうしても国民性とサッカーが結びつかない国があった。
イタリアである。
自動車は、サッカーと同じく国民性が表れると言われる。なるほど、メルセデスやBMW、アウディにはドイツ代表のサッカーをイメージさせる部分があるし、軽妙洒脱なプジョーやシトロエンは、プラティニがいたころのフランス代表に通じるところがあった。
だが、わたしの知る限り、アズーリがフェラーリだったことはない。ランボルギーニだったことも、フィアットだったこともない。比肩しうる存在がないほど魅力的で、でもドイツ車などに比べると雑なところもあって――そんなイタリア車のイメージとアズーリがダブったことはない。ドイツ代表は、ドイツ車同様に質実剛健といったイメージを持っているが、アズーリが官能という言葉で表現されることはまずない。
カルチョといえばカテナチオ。ゴールに鍵をかけ、相手の猛攻をしのぎきる。いささか退屈で、創造的とは言い難いスタイルが、なぜあれほど陽気で芸術が愛される国で育ったのか。それが、長年の疑問だった。
その謎が、ちょっと解けた気がしている。
サッカー同様、ラグビーのW杯に出場しているイタリア代表もユニホームの色は青で、愛称は“アズーリ”である。ただ、その戦いぶりにはいささか驚かされた。
背骨が感じられないのだ。
サッカーのアズーリには、どの時代のチームであっても、自分たちの守備に対する絶対的な自信がある。1点を取れば勝てる。だから耐える。この自信と背骨を叩き潰すのは、世界のどんな国にとっても簡単なことではない。
だが、ラグビーのアズーリは脆かった。劣勢に陥るとコントロール不能となり、あっさりと自滅していった。今大会でもっとも無残なチームはどこかと問われれば、わたしは南アフリカ戦でのアズーリをあげる。
サッカーをプレーしているのも、ラグビーをプレーしているのも、基本的にはイタリア人である。なのに、この違いは何なのか。
歴史、かもしれない。
イタリアは、欧州で初めてサッカーW杯を開催した。欧州で初めて王者となった。世界で初めて連覇を達成した。その歴史と、誇りを守るために編み出された武器が、カテナチオではなかったか。
サッカーW杯の第1回王者となったウルグアイは、国の規模とは関係なく強豪としての地位を守り続けた。東京五輪で優勝した日本の女子バレーは、常にメダルを期待される存在であり続けている。
ベースとして重視されるのは、堅い守備である。
栄光の歴史は、国民性をも凌駕する。ラグビーW杯を眺めながら、そんなことを考えた。
<この原稿は19年10月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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