1年目のシーズンを終え、2年目に入ったカープだったが、球団としての問題は山積みであった。差し迫った問題としては、阪神甲子園球場で開催される「春の野球祭」と呼ばれる大阪トーナメント大会に参加する遠征費がなかったこと。累積赤字は600万円を超えていた。カープが大洋球団への吸収合併が決まりかけた天城旅館での会議、“どっこい、そうはさせまい”と、石本秀一監督が打ち出したカープ後援会構想により、合併は中止された。

 

 こうした一連の動きの中、昭和26年3月14日、石本監督による土壇場でのひとことで事態は変わった。「ワシに任せてもらえないか」。グラウンドで選手を指揮する監督でありながら、経営の面倒まで見るという決断の言葉であったろう。周囲を制し、カープ存続へと向かわせたのである。

 

復興を目指すまち

 カープは長い一日を乗り越え、事態は変わった。翌日、選手らは「春の野球祭」に参加するため、広島駅に集合した。

 カープ選手らの集合時間は早い。おおよそ定刻の30分前には全員が集合し、今でも“カープ時間”としてチームに引き継がれている。

 

 こうして早く集まったにもかかわらず、肝心の切符代が届かない。選手らもソワソワするばかり。前日まで合併か解散かで揺れ、気持ちは穏やかではなかったはずだ。すると、これを察した駅員が、<「カープさん、取りあえず、中に入ってください」>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版)と促した。

 

 改札からホームへ通された選手たちに切符代が届けられたのは、出発前ぎりぎり。檜山袖四郎・県議会副議長が乗った車が見えた。この時のことを入団2年目の長谷部稔はこう述懐する。

「ワシらー、とにかく道具持って駅へ出とけ、いうことでね」

「広島駅に行ったら、駅員さんもみなファンじゃから、『おー、入っておけ、入っておけ、あの汽車じゃけー』と言うて、汽車まで入って、みんな座って待っておいたらね。窓からのぞいてね、ほいたら、金が間に合いましたね」。

 無事、お金が届いて、選手らは大きく安堵したという。

 

 さぁ、出発。ファンに見送られながら、急行「安芸」は大阪に向かった。一難を乗り越えた選手たちの顔は嬉しく、誇らしく輝いていた。

 

 時を同じくして、広島駅におけるドラマがあった。昭和26年は、復興を掲げ誘致に乗り出していた広島国体が開催された年でもあった。被爆後間もない昭和22年12月の県議会で満場一致の可決をし、夢にまでみた国体開催。スポーツ王国復活にかける県民の思いを広く伝えようという試みで、新年早々、広島県内5市30会場の所在地が示された地図が、初めて電光式で設置された。

 

<広島駅前にスポーツ各種のフォームにいだかれたネオン付国体会場分布図を経費四〇万円で近く着工することになった>(「中国新聞」昭和26年1月12日)

 広島駅頭に昼夜問わず人が群がったのは間違いない。スポーツ王国の、原爆投下からの復興を告げるものだった。

 

 この時期、原爆によって、孤児となった子どもたちを何とかしたいと、広島を訪れる人は少なくなかった。アメリカのジャーナリストで作家のノーマン・カズンズ氏は2度目の広島来訪であったが、原爆で親を亡くし、戦災孤児となった子どもたちの養育費を賄い、精神養子を引き受けた。同胞のジャーナリスト、小説家であるジョン・ハーシー氏の著書『ヒロシマ』の中に記されている原爆で被害に遭った家を訪れたという。

 

<「カズンズ先生は家のことを心配してくださったようですが、おとどし八月来られたときも天井を張ったらどうかといわれました」>(「中国新聞」昭和26年1月16日)

 カズンズ氏は1度目の来広時と変わらず、雨ざらしの暮らしぶりを心配した。これに対し、家人の答えは、<「家の半分が都市計画の道路にかかるそうですからどうせここを逃げなければならないのでまだ何もしておりません」>(同前)。復興に向けた道路計画の予定があるため、直さずに住み続けていると答えている。

 

 まともに住むことができない人たちにも、温かい言葉と支援を絶やさなかったカズンズ氏であった。

 

心を打った石本の辻説法

 さて、カープである。この時期、宿舎を転々とさせられ、出資先である親会社もないという点では、何ら、県民市民の暮らしと変わらなかった。家なし、親なしの実情に風穴をあけたのは、石本の後援会構想である。石本は「カープはつぶさない。全てをワシに任してほしい」と一手に引き受けた。さぁ、これで上向いていくかといえば、一筋縄では行かない。甲子園に着いたものの、選手らにはまたしても苦難が襲い掛かる。宿がなかったのだ。

 

<若手のメンバーの宿泊先は、なんと甲子園球場だった>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版)

 遠征費に事欠きながら、たどり着いた甲子園は宿泊先にも事欠くありさまだった。阪急や南海など関西の球団からの移籍組は大阪に自宅があったものの、その他の選手たちは甲子園の大広間に泊まったのだ。

 

 こうした中で、選手は試合に臨んだ。3月16日、トーナメント初戦の巨人戦は、先発の石川清逸が初回に打ち込まれ、4点を献上。さらに2回に1点を追加され、エース長谷川良平にスイッチしたが、時すでに遅しだった。なんとか食らいつくカープだったが、2対6でゲームセット――。

 大会直前まで、合併か解散かで揺れ動いた直後の試合とあって、なんとか持ちこたえ、試合を終えられたというのが、実際のところであっただろう。

 

 この「春の野球祭」を終えても石本監督は、ゆっくりしている間はなかった。後援会づくりに奔走しなければならなかったのだ。

 

 石本が向かった先は、広島県庁の玄関先であった。昼の休憩時間を狙って、まずは県庁職員に呼びかけた。石本は三つ揃いの背広に身を包み、広く呼びかけた。県庁前での辻説法の内容を引用する。

<「みなさんの郷土に生まれた広島カープはいま存亡の危機に立っています。広島は野球王国といわれるところです。私は広島の者で広島に骨を埋めるつもりで監督に就任しました。しかしカープがつぶれたのでは、なにもならぬばかりか、野球王国を誇る本県の恥です。カープはいまは弱いがこれは一にも二にも金がないため選手が補強できないからです。広島からは優秀なプロ選手が数多く出ています。金さえあれば引っぱってこられる。みなさんのように熱心なファンがあれば、基盤さえしっかりすれば、必ず優勝できます。いまはポンと金を出す人がなくカープはよい土地柄に生まれながら消えようとしています。しかし一人一人が少しずつでも援助してくだされば、十分食いつないでいけるのです。そうしてやがては強いチームに育てあげることができます」>(「読売新聞」カープ十年史『球』第60回)

 

 朴訥でしわがれ声の石本であったが、熱意のこもった言葉は周囲に伝わった。いきなり県庁の秘書課が1800円、会計課が2000円を集め、手渡すというシーンが見られるほど集まった人々の心を打った。このプロ野球史上前例のない後援会が生まれた広島県庁だが、現在は中四国の医療の中枢を担う広島大学病院(広島大学霞キャンパス)となっている。

 

10日あまりで3000人

 県庁は歴史上、数奇な運命をたどっている。戦前は、広島市中心街からやや西部にある水主町(現・広島市中区加古町)にあったが、原爆により焼失。移転を繰り返した後、一時期、東洋工業(現・マツダ)に仮庁舎を設置した後、現在の広島大学霞キャンパスの地に移転したというわけだ。この地は、戦前、帝国陸軍の銃剣をはじめ、弾薬を集めていた旧広島陸軍兵器補給廠でもあった。カープ後援会の記念すべき第一声を上げた後、昭和32年に県庁は広島市中区基町に移転する。この現所在地こそが、昭和25年1月15日にカープ結成披露式が行われた場所でもあり、県庁の所在場所とカープは因縁深い。

 

 話を、石本の後援会づくりに戻そう。後援会構想とはこうである。

①募金の金額は多少を問わない

②会費は年間200円、分納も認める

③会員および100円以上の援助者には優遇措置をとる

④受け付け先は広島商工会議所内のカープ事務所、および中国新聞社とその支局

⑤支援金額は中国新聞に掲載する

(松永郁子著・駒沢悟監修『カープ苦難を乗り越えた男たちの軌跡』宝島社)

 

 石本の後援会づくりはまさに精力的なものであり、ありとあらゆる場所に足を運んだ。

<昼間は会社、工場、官庁の休憩時間をねらって、工員さんや職員さんを集めてカープの窮状を訴え、夜は町内会長にカケ合って有志の前で救援を仰ぐといったありさま>(「読売新聞」カープ十年史『球』第60回)

 靴底をすり減らしながら町中を行脚し、後援会の支部結成を呼び掛け、その会員からの会費を集めて回った。石本の目論見は的を射ていた。石本は当初の盛り上がりを大事にしたとされており、辻説法を行って回った。わずか10日あまりで、いきなり3000人を集めるなど、盛り上がりを見せ、うまくブームをつくっていった。

 

 しかし、すべてがうまく進まないのが、草創期のカープである。この年、セントラルリーグは、3月29日と30日の両日にまたがり開幕している。

 ところが、広島カープにあっては、なぜか開幕戦どころか、試合すら組んでもらえないのである。

 

 カープはなぜ開幕ができなかったのであろうか――。これには、その年のセントラルリーグのチーム編成と、連盟の思惑が深く関係し、さまざまな力が働いたとされる。次回のカープの考古学では、後援会設立により、存続の危機から脱したカープが、開幕できない原因を探ってみたい。近代プロ野球からは考えられない、不遇の扱いをキャッチアップする。乞うご期待。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年1月12日、16日)、「カープ十年史『球』第60回」(読売新聞)、『カープ苦難を乗り越えた男たちの軌跡』松永郁子著・駒沢悟監修(宝島社)、『資料からみた広島県庁舎の歴史』(広島県立文書館)、『広島スポーツ100年』金枡晴海著(中国新聞社)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』(トーク出版)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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