広島カープの存続が決まったのは、初代監督・石本秀一の妙案である後援会構想により、資金を県民市民一人ひとりから集めることで、経営面での活路が見出せたからだ。さらに、2年目のシーズン前、「春の野球祭」と呼ばれる大阪トーナメント大会の遠征費については、檜山袖四郎社長が駆けつけ、なんとか工面できた。カープは、こうして戦列に復帰できたのだ。さあ、2年目の開幕戦に向けて邁進するのみとなった。

 

米の圧力と安全保障

 昭和26年の年明けから、プロ野球開幕の前月となる2月までの世の中の情勢は、日本が国際社会への復帰を目指す上での、安全保障問題について騒がれていた。戦後の米ソの冷戦構造の中、アメリカが日本に求めたものとして「集団的自衛権」がクローズアップされる。

 

 この年の始めから、新聞紙上にたびたび登場してくるのが、ジョン・フォスター・ダレス特使。このダレスこそ、のちの日米安全保障条約の“生みの親”とされる人物である。1月25日の午後8時半に特別仕立ての軍用機で羽田空港に到着した。アメリカ本国からの大役を背負ったとされるダレスの思いはこうだ。

 

<私はトルーマン大統領からマッカーサー元帥と協力して果たすように依頼された講和の使命を持ち、再び日本を訪れたことをうれしく思う」(「中国新聞」昭和26年1月26日)

 

 この報道がなされた日、1月26日はマッカーサーの71歳の誕生日であり、マッカーサーの信条が、こう伝えられた。<元帥の責任感は安易な方法で仕事をやり通すことを許さない」(「中国新聞」昭和26年1月27日)。円熟味のある年齢になりながらも、気力体力ともに充実の日々であったろう。

 

 そう思わせるエピソードとして、1月28日の午前8時10分に羽田を発つと、朝鮮戦争の前線を視察し、午後4時には羽田に帰着するという、国際連合国軍の総司令長官としての使命感が感じられる一日もあった。加えて、日本の占領政策にも気を配った。揺れ動く朝鮮半島情勢の下で、複雑な日米間の方向付けがなされていくのだ。その後、2月1日にマッカーサーは、ダレスと会談を持ち、意思疎通を図っていった。

 

 ダレスはアメリカからの使命を背負い、その思いに違わぬよう、マッカーサーの思いを汲んで日本との交渉に臨んでいたのである。この時期の争点となったのが、「集団的自衛権」に対する考え方。1月30日、ダレス特使と吉田茂首相の会談が行われると、記者から「本日の会談の模様は?」と聞かれた吉田は、ただニヤリと機嫌よく笑って、コメントは控えた。

 

 2月2日、ダレスからのコメントの一部として、<米国は安全保障計画のもとに米軍を日本およびその周辺に駐在させることを好意的に考慮するであろう>(「中国新聞」昭和26年2月3日)と日本駐留への方向付けが伝えられている。

 

 こうした日米首脳による交渉から、この年の9月8日の国連総会における、サンフランシスコ講和会議へと向かっていき、日米の安全保障条約の骨格は出来上がっていった。アメリカからさまざまな重圧を感じながら、押しつぶされそうな国内情勢であったことは間違いなかろう。

話をカープに戻す。この時期、セントラルリーグ連盟からの厳しい重圧に耐えていたが、再び危機が訪れる。

 

8球団から7球団へ

 さあ、カープ2年目の開幕だ――。存続の危機から逃れることができた選手らは、最高の時を迎えていた。一度は死んだ身、怖いものがあろうはずもなかった。開幕カードで暴れるだけだった。

 

 ところが、である。この昭和26年、セ・リーグは7球団で開幕するはずであったが、なんとカープだけは試合が組まれなかったのだ。前年、セ・リーグは8球団でスタートしたことは、過去にこのコラムでも書いた。しかし、このシーズン前に、福岡にフランチャイズを置く、西日本パイレーツが消滅したのである。

 

 元々野球熱の高い福岡には、パ・リーグの西鉄クリッパース(昭和26年から西鉄ライオンズ)があった。福岡・平和台球場を本拠地に、バスや鉄道といった人々の移動に欠かせない親会社をバックにつけ、しっかり根を下ろしていた。

 

 そこからわずか10キロ程度南に離れた春日村(当時)にある春日原球場も併用しながら、西日本新聞社を親会社に、球団経営をしていたのが西日本パイレーツであった。当時、福岡市の人口は40万人程度とあり、ファンもどっちを応援していいやらと、地域に根付かない上に地元での試合も少なかった。こうした中で、西日本新聞社の経営を圧迫するかのように、本業に携わる記者の給料にも影響が出て、あわやロックアウトが発生する事態に陥っていた。

 

 こうした中で、球団自体を立て直そうとする動きは、昭和26年のシーズン前までなされていた。その一つとして、巨人軍を追われ、のちに名将と言われる三原脩を監督に迎え入れようとする動きがあった。

 

<西日本パイレーツでは危機打開のため、田中社長らが、十六日午前着京、直ちに安田セ・リーグ名誉会長と会見した結果、チーム存続についての意見の一致を見たもようで総監

督に巨人軍三原総監督を迎えて積極的にチーム再建にとりかかることになった(共同)>(「中国新聞」昭和26年1月18日)と、三原を核に据えることで、組織の強化を狙った。

 

 しかしながら、願い叶わず、三原は西鉄の監督になるのである。求心力を得られなかった西日本パイレーツは、あえなく消滅し、選手の一部も西鉄に移った。

 

 こうした事情から、セ・リーグは7球団でのスタートとなってしまった。そこで、セントラルリーグ連盟は、全チームが同日に試合が組めなくては、興行上の効率が悪いと、カープを開幕カードから外した6チームで開幕しているのだ。

 

 カープに第二の試練が襲いかかった。広島での解散決定を覆した後援会構想など、一連の動向が連盟にうまく伝わっていなかったのだ。また、連盟も観客動員の見込めないカープには、過去幾度となく泣かされてきたため、致し方ないといえば致し方なかった。

連盟は挙に出た。

 

<途中から公式試合を止めるようなことがあっては困るし経済的にも心配だから六百万円積立が出来ぬか><このままの陣容では売りものにならぬが、四月選挙終了まで休み、補強してから出発するか>(ともに「中国新聞」昭和26年3月30日)

 

他球団による支援策

 カープは、散々な言葉を浴びせられた。この時期、互いの主張が新聞紙上では行き交う。例えば、この“600万円を積み立てろ”には、根拠がないわけではなかった。カープが初年度累積した赤字が600万円であったため、事前に見せ金を作らせることで、連盟はカープのペナントレースを担保することを目論んだのだ。ただ、カープ側も怒り心頭。3月28日の代表者会議を欠席することで、反発した。

 

 こうした中、カープ側は上京して話し合いを持つよう迫られた。球団幹部と石本らで対応を協議し、4月2日、檜山が東京・木挽町にある日本野球連盟を訪ね、協議を重ねた結果、共同声明を発するに至った。

 

<カープの財政的見通しとチーム強化の見込みがついたので第二節四月七、八日の広島対

阪神戦(広島総合球場)の日程以下広島カープのスケジュールを予定通り進行することに

決定した>(「中国新聞」昭和26年3月26日)

 

 これにも当然、根拠があった。石本が後援会結成を呼びかけてから、10日あまり経った中で、東洋工業、日本製綱、広島電報局、広島電鉄らをはじめ、職域組織が20を超えて名を連ねた。町内会別でいうならば、皆実、尾長、愛宕、蟹屋をはじめ、10に及ぶ組織で、会員総数3000人にも及んだ。

 

 これら一人分の拠出する額を200円とすると、後援会費の総計が計60万円に及ぶことから、わずか10日間で、積立の要求(あくまでも要求のみ)があった金額の10分の1を集めることに成功しているのだ。カープの歴史は、県民市民の一人ひとりの拠金により、救われるのである。

 

 カープが第二の試練に立たされる中で、うれしい話もあった。かの池田勇人大蔵大臣が、<カープナイン激励のため宿舎朝陽館に大平秘書官を派遣、陣中見舞金として金一万円と清酒五本を贈った>(「中国新聞」昭和26年3月25日)のだ。余談であるが、この時、届けてくれた人物は、のちに内閣総理大臣となる大平正芳であったことも、驚きであろう。

 

 他には、カープの開幕カードの相手で、この年、大阪トーナメント大会を優勝した阪神の松木謙治郎監督が、かつての恩師・石本率いるカープに「困っているなら」と、優勝賞金2万円を贈った。さらには、パ・リーグから、南海、西鉄、東急、阪急らから<広島カープのため無料で二試合挙行を申し出る>(「中国新聞」昭和26年3月30日)と、カープの苦境を知った各チームから、支援策が寄せられたのである。

 

 こうして二度目の試練を乗り切ったカープは、やっとのことで開幕できる。この時期、広島総合球場のレフト側の入口には、酒樽が置かれ、当然のようにファンらは、なけなしのお金を投げ入れるのであった。この“たる募金”こそ、カープの収入の三本柱の一つ(残りの二つは、試合収入と後援会収入)として、球団経営の鍵を握るものである。次回は、この“たる募金”の謎に迫りつつ、発祥の所以を紹介したい。乞うご期待。

 

【参考文献】                  

「中国新聞」(昭和26年1月18、26、27日、2月3日、3月25、26、30日)、『カープ苦難を乗り越えた男たちの軌跡』松永郁子著、駒沢悟監修(宝島社)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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