カープ球団存続へ最大の危機が訪れたのは、2年目のシーズン開幕が迫った昭和26年3月とされている。この前兆ともいえる、カープの危機はたびたび起こる。前年のシーズン終盤、観音地区にあった三菱の選手寮から追い出され御幸荘へと転がり込み、シーズン終了後には選手から給料の支払いを懇願されるほど、経営はひっ迫していた。さらに、食費にも事欠いたため溢れんばかりの肉が入ったすき焼きで、矢野地区のファンから胃袋を賄ってもらうなど、その場しのぎの球団経営は、プロのチームの体を成していなかった。親会社を求めてさまよう石本秀一監督は、もはやチームの監督ではなく、球団経営の屋台骨を支える経営者のようだった。

 

 なぜ、次々とやってくる艱難辛苦の中で、カープ球団は生き延びられたのか。親会社のない経営展開、そして復興最中の広島で、プロ野球など成り立つはずはなかったろう。しかし、溢れんばかりの郷土の愛情を注がれ育ったカープには、おまわりさん募金という一つの転機があったのだ。動き出したのは、ファンである市民一人ひとり。これを石本監督が、束ねていくのだ。第50回という節目を迎えたカープの考古学では、こうした存続の危機とカープはどう向き合い、凌いできたのか。転機を生んだ石本の、世紀の逆転劇をキャッチアップしてみたい。

 

ゆれる世界情勢

 カープ史における球団存続危機の訪れが感じられた、昭和25年シーズン終盤の出来事として、世界的な動きがあった。<凄惨な経験をなめた世界の人々の切なる平和への望みから生まれた機関である>(「中国新聞」昭和25年10月25日)国際連合の動きは、被爆地である広島にとっても重要事項であったろう。誕生から丸5年を迎え、世界では多くの催しが行われたようだ。

<24日の国連デー、アメリカはじめ国連加盟の世界各国でそれぞれ多彩な記念行事がおこなわれた>(同前)

 

 しかし、日本はGHQの支配下にあり、当然ながら、平和を守る機関とされた国連への加盟を果たせずにいた。

 

 終戦から5年目の日本球界は、セ・リーグとパ・リーグに分かれ、ファンも増え、野球を楽しむ気運が芽生えてきていたのは事実であるが、日本国自体が独立国家としての歩みを果たせずにいたのだ。この時期、日本という国の未来を大国アメリカが握るのか、ソ連がモノ申すのか、国際的に世論が分かれていた時期だった。水面下でさまざまなパワーゲームが行われながら、米ソ会談が開催され、連日話題をさらった。アメリカが日本への基地配備をすすめる動きに、ソ連が危機感を募らせていたのもこの年のことだ。

 

 一方でこの昭和25年は、朝鮮動乱によるブームとされた特需の余波に襲われた時期でもあった。年の瀬、日本国内は軍事物資の需要に沸き上がり、戦後復興を足早に進めたとされる。

<25年から26年前半にかけての朝鮮動乱ブームと日本経済の急速な復興>(『マーカット少将懇談会の回顧-占領軍と財界との秘められた会合の記録-』東京商工会議所)

 

 特需によるインフレ懸念から、物価上昇の波が国民の生活を襲った年でもあった。まだまだ、闇市や、都市と田舎で野菜や着物を交換するタケノコ生活を送って我慢していた国民は、さらなる痛手を受けたのだ。

 

 ここで現れたのが、デトロイト銀行の頭取、ジョゼフ・ドッチである。前年からの景気浮揚策としてのドッジ・ラインにより、日本経済を立て直しに向かわせていた。こうした世界情勢下、カープの最大の危機が訪れるのである。

 

 開幕前で、試合興業のないカープにはお金がなかった。差し当たりの課題は、遠征費の工面。チーム2年目のシーズン開幕にあたり、阪神甲子園球場で開催される「春の野球祭」と銘打たれたトーナメント大会に出場するための列車代がなかったのだ。

 

遠征費がない

 昭和26年3月14日はカープ史上最大の危機とされ、カープは発足後わずか1シーズン戦っただけで消滅するのかという、まさに崩壊の道を歩んでいた日である。この日、選手らは16日から19日の日程で「春の野球祭」に参加するための遠征費を捻出してもらうため、出資元である広島県庁を訪れていた。

 

<「われわれカープは、明日からの大阪トーナメント大会に参加いたします。その必勝を祈願しまして、われわれの出資の元であります、広島県庁にご挨拶に参りました。つきましては、大阪に遠征するにあたり、その遠征費の拠出をお願いすべく、今日ここに助監督であります、私白石を始め参加するメンバーでお願いに上ったわけでございます〉>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版)

 

 この懇願を受けているのは、あの小谷伝一である。県議会議長を務める身で、困ったなあという表情をしながらも懇願を受けとめていたとされる。昭和25年末、小谷はカープ選手の給料を、金融機関を回ってかき集め、出資元である広島県議会議長としての本分を全うした。小谷は県知事選出馬の要請を受けていたが、県知事にはならずカープのために一身を捧げたことは第46回、考古学で紹介した。

 

 この時期、小谷自身は大事な時期であった。1カ月半後の4月30日に控えた県議会議員選挙を前に、当然ながら、後援会活動にも奔走していなければならなかった。

 またしてもカープか――との思いであったかもしれないが、なんと小谷はこの選挙で落選するのだ。

<県議選の大番狂わせは、公正クラブ会長の小谷傳一前議長の落選であった>(『戦後広島県保守王国史』溪水社)

 

 このとき、小谷がとった選挙戦も興味深い。自身の所属する会派公正クラブの議員を増やすことを睨んだ策であったろう。

<新人三浦を当選させて、小谷自身は二四票差で次点となった>(同前)

 

 私利私欲に左右されない小谷のことである。新人をサポートしながら、自身の当選も狙った目論見であったのだろう。自身の選挙よりも、新人の選挙をサポートしたが故の落選であったのは想像に難くない。

 当然ながら、カープの遠征費についても、即答はできなかったものの解決策を思案していく。

 

衝撃のニュース

 遠征費がない中でシーズンインできるのか、という危機感を持ちながら、紅白戦を繰り返し、身体を仕上げてきた選手であるが、当然シーズンに入れば遠征続きの日々である。しかし、直前に迫った大会の遠征費がないカープに、1シーズンを戦えるはずもないというのが大方の見方だった。差し当たりのカネがないカープは、遠征に待ったがかかる。

 

 こうしたことから、3月14日の午後のこと。中国新聞社において役員会が開かれ、カープの処遇に焦点は絞られた。ただし、ここに集まったのは経営陣ばかりであったため、やはり現場を預かる監督らの声も聞こうということになった。

<『石本や白石らの意見も聞こう』の声もあって容易にまとまらない>(『カープ30年』冨沢佐一、中国新聞社)

 まとまらないならば一旦解散して場所をかえ、天城旅館へと会場を移して再び開始する運びとなったのである。

 

 この動きを捉えたNHKラジオは午後7時のニュースで伝えたのだ。

<カープ解散、大洋と合併か――>(『日本野球を創った男――石本秀一伝』講談社)

 

 これに驚いたのは選手らである。「ついに、この日がきたか」と落胆する。噂には聞いていたが、現実のものとして受け入れられるものではなかった。選手宿舎である御幸荘において、その広間には次々と選手らが集まってきた。

 

 石本は、口を開いた。

「ついにこげーな、ことになってしもうた。すまんが、みんなの気持ちを聞かせてくれるか?」

 選手も口を開き、詰め寄った。

「石本さん、デマですよね」

「石本さんを、信じてやってきたじゃないですか」

「ワシら、明日からどうして生きて行けばいいんですか」

 

 空腹をかかえながらも、1年間なんとかやってきた自負はあったのだ。ただし、遠征費が降って湧いて出てくるはずもなかった。

 悲壮感あふれる選手の表情には、涙が頬をつたい、むせび、声にならない。

「これからも、カープで頑張るから……」とやるせない声が響いた。

 

 ここで気勢の声をあげたのは長持栄吉であった。

<「列車に乗れなかったら、歩いて甲子園へ行こう、わしなら歩いていいから、はあ、大会に出るね」><「異議なし、甲子園へ歩いて行こう」>(共に『カープ30年』冨沢佐一・中国新聞社)

 苦境に立たされた選手らの悲痛な叫びが、ある種、団結を生み、ひとつの魂になってこだまする。

 

「みんなの気持ちはよくわかった。あとはワシに任せてくれるか」と石本は天城旅館に向かった。

 最後通告をつげられ、いてもたってもいられない選手らを、引き受けたのは助監督でもある白石敏男(後、勝巳)であった。

<「みんな聞いてくれ、このまま合併になったら、この中で球団に残れるのは、二、三名しかおらん。しかし、石本さんが、ああまでいわれるんだから、信じて待とうではないか」>(『日本野球を創った男――石本秀一伝』講談社)

 この中で残れるのは2、3名という言葉が、残像となったか、妙に選手らの気持ちを苦しめたのである。

 

 当時19歳で、この話を聞いた長谷部稔であったが、「あれを聞いたときは、みんなわが身じゃ思うて、シューンとしてしもうて……。あとはみんなクビになるいうて。空気が重とうなってね」と後のインタビューで語っている。当時のカープの選手らは、選手としての峠を越えており、妻帯者が多かったことも、明日をも知れぬ身にはなれない境遇であったのだ。

 

空白を埋める石本の言葉

 石本が役員会の会場である天城旅館に着くと、あろうことか、NHKラジオニュースを聞いたファンが、旅館を取り囲むかのような、勢いで集まっているではないか――。

 バタンコタクシーを降りた石本をめがけ、ファンらが、声を浴びせる。

「石本さん、カープをつぶさんでください」

「石本さん、カープはワシの生き甲斐じゃ」

「金なら何とかする。ワシらのカープを、なんとかしてくれ」

 

 石本は人々からの声に、頷きながら、ファンらを制して、旅館の入口に入った。

 ところが、石本が到着した役員会では、なんと、すでに大洋との合併が決まった後だったのだ。

 初代カープの社長とされる檜山袖四郎(当時・県議会副議長)は、すでに解散宣言を終えて、席をたっていた。

 

<役員会は、合併を決め、檜山は帰った後だった>(『カープ30年』冨沢佐一・中国新聞社)

 檜山は、現場を率いてきた石本の前で、自らカープの解散宣言をするのは、忍びなかったというわけだ。

 

 この瞬間を、どうとらえるのか――。大洋との合併決定後の会議上ということから、カープ史には、空白の日はないとされるのが定説ではあるが、わずか数時間の空白は存在しているのだ。

「カープ解散、大洋と合併か――」。まさに、ラジオで放送された通りであった。

 しかし、この決定を覆すかのごとく、石本のひらめきから、心の雄叫びが生まれ、事態を急転させる。カープが生命を吹き返す瞬間がやってくるのである。

 

 石本が口を開いた。

<「とにかく、解散だけは中止して、一切を私に任せてもらえまいか」>『カープ30年』冨沢佐一・中国新聞社)

 

 この一言がなかったら、カープ史は途絶えていたのだ。カープが70年を超える歴史を刻む端緒となった言葉であった。石本は生涯をかけた野球への情熱を持ち、郷土に根ざした野球愛に裏打ちされたファンを知る。その石本が、熱に浮かされたかのようにしゃべり始める。

 役員らが石本に「何かいい案があるのかね」と問えば、<「募金じゃ」>(『鯉昇れ、焦土の空へ』NHK番組、2014年9月26日)と声をあげる。

 

<「小さい金を県民全体から集めるのです」>(「読売新聞」カープ十年史『球』昭和34年連載43回)

 これには役員らも、不安げに意見を交わす。

「うまくいくだろうか」と役員が問う。無理もなかった。銀行を駆けずり回り、ありとあらゆる金策から、親会社探しなど、打つ手を全て打った上でのことだからである。

 

「後援会を結成するんです。ワシは職場から町内会、工場すべて一軒ずつ回って、お願いして回る」と決意を語る石本である。

「一軒ずつとはたいへんですが」と役員。

「やらずにできないということはない」とすぐさま石本。

 魂から溢れ出る言葉は次第に会議の空気を変えていくのだった。眉間にシワを寄せながらも、力強い独演が続いた。

 

「それから、中国新聞さん、ワシの書くものを無条件で新聞に載せてください。ワシはカープの窮状を広く市民に知ってもらうために、現状をきちんと記事にして伝えます」

 会議は好転していく、カープの未来に光明が差し込み、カープ史のわずかな空白数時間を埋めていくのだ。こうして石本の発案による後援会構想により、生気を帯びていくのである。

 

 さあ、カープの未来は、どうなるのであろうか――。前途多難であった「カープ二年目の解散の危機編」は今月までとさせていただき、来月からは、「カープ飛躍の契機、後援会設立編」をお伝えする。みなさま、ご期待あれ。

 

【参考文献】『マーカット少将懇談会の回顧-占領軍と財界との秘められた会合の記録-』(昭和34年9月、東京商工会議所)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、『戦後広島県保守王国史』(溪水社)、『プロ野球三国志 第八巻』大和球士(ベースボールマガジン社)、「中国新聞」(昭和25年10月25日、11月1日)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』(トーク出版)、『日本野球を創った男――石本秀一伝』(講談社)

【参考映像】『鯉昇れ、焦土の空へ」(2014年9月26日、NHK)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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