8月22日に閉幕した夏の甲子園は、仙台育英(宮城)が東北勢では春夏通じて史上初となる優勝を飾りました。好ゲームが多かった今大会、センバツ王者の大阪桐蔭がベスト8で姿を消す波乱もありました。準優勝した下関国際(山口)との準々決勝では、夏の甲子園で9年ぶりに記録されたトリプルプレーを喫する不運もありましたね。

 

 また、全体的にエラーが目立った大会でもありました。1回戦から決勝までの全48試合でエラーの数は139個。1試合あたり2.89個は、過去10大会と比べて最も多い数字です。増加の理由はいくつかありそうですが、今大会特有のグラウンドコンディションも大いに影響したのではないかと考えます。

 

 それでは、今月も私の球論にお付き合いください。

 

9年ぶりトリプルプレー

 ビッグプレーが飛び出したのは、大阪桐蔭対下関国際戦の7回裏でした。スコアは4対3で大阪桐蔭が1点リード。追いかける下関国際は2番手・仲井慎投手が、ヒットとエラーでノーアウト一、二塁のピンチを招きます。続く大阪桐蔭の7番・大前圭右選手はバントの構え。丁寧に外角へ投げ込む仲井投手でしたが、2ボールとしてしまいます。

 

 3球目は低めの直球、大前選手は体勢を崩されながらも強引にバットを当てにいきました。すると、打球は小フライとなって仲井投手の正面へ。ここでの打球処理の速さが見事でした。投球後すぐさま守備体勢に入りボールを掴んで1アウト。その後、少しのロスもなく二塁に送球し2アウト目を奪うと、一塁走者も帰塁が間に合わず3アウトとなりました。

 

 殊勲の仲井投手の背番号は「6」、本職のショートで鍛えたフィールディングがここ一番で発揮されましたよね。捕ってから二塁に投げるまでの動きがとにかく速かったですから。仮にフィールディングが苦手な左ピッチャーであれば、二塁への暴投を投げてしまったりして、逆にリードを広げられていた可能性さえありました。

 

 大阪桐蔭としては、少し欲張りすぎた部分もありましたね。バントエンドランではなく普通に送りバントを試みていれば、もし二塁走者が封殺されたとしても依然1アウト一、二塁のチャンスでした。結果的に、このプレーが試合の流れを変えたと言っても過言ではありません。ただ、強攻策を余儀なくされるほど下関国際のシフトも強烈だったのでしょう。

 

「康友さん、やったね」

 今大会は厳しい暑さに加え、4年ぶりに雨天順延がなく好天に恵まれましたね。ただ、連日の強い日差しが、土のグラウンドをかなり硬くしていたはずです。それが証拠に、打球がよくバウンドしていました。内野手はそういう打球に突っ込んでいった結果、弾いてしまってエラーになるというケースが結構ありましたよね。

 

 ハイバウンドのゴロで思い出したのは、私が巨人の守備走塁コーチを務めていた2002年の日本シリーズです。巨人の相手は2位に16.5ゲーム差をつけてパ・リーグを制した西武。4番・松井秀喜、5番・清原和博と“空中戦”を展開する巨人に対して、西武は1番・松井稼頭央、2番・小関竜也と俊足で、グラウンダーを打つ選手が揃っていました。

 

 そこでハイバウンドのゴロを打たれると、機動力に長ける西武に有利になってしまうと考えた私は、東京ドームで行われる第1戦の前日、グラウンドキーパーにこうお願いしました。「ホームベースの前を柔らかく整備しといて」。打球の勢いが死んで、高く跳ねないようにしてもらったのです。

 

 この対策が見事にハマりました。第1戦の1回表、ヒットで出塁した松井稼を、小関がバントで送ろうと試みた時です。キャッチャー阿部慎之助の前でバウンドした打球は、柔らかい土のおかげで丁度処理しやすい高さに跳ねました。素手で捕った阿部がセカンドへ送球しアウトを奪うと、後続も抑えた巨人は一気に流れに乗り、4連勝で日本一まで駆け上がりました。第1戦の後、グラウンドキーパーがコーチ室に来て、「康友さん、やったね」と言いに来てくれた時は嬉しかったですね。

 

 とにもかくにも球児たちによる熱戦が幕を閉じ、昨年の「五輪ロス」ならぬ「甲子園ロス」ですね。ただ、終盤戦に入ったプロ野球も盛り上がっていますよ。セ・リーグは前回のコラムでも話題にあげたDeNAが首位ヤクルトを猛追、一方パ・リーグはソフトバンクや西武を中心に大混戦を繰り広げています。次回はそうしたプロ野球の優勝争いについても触れていきたいと思います。それでは、また来月お目にかかりましょう。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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