長谷部の力を借りない手はない。カタールで戦う相手の一つがドイツに決まった時から、そう思ってきた。

 

 彼には経験があり、浸透圧の高い言葉がある。チームに迎え入れることで、得られるメリットは計り知れない。そう思ってきた。

 

 ただ、簡単なことではないだろうなとも思っていた。

 

 もし本当に長谷部が日本代表で助言役を務めることになれば、選手たちが喜ぶのは間違いない。どう考えてもプラスの効果しか考えられないのだから、協会の首脳部にとっても喜ばしい。

 

 唯一、監督を除いては。

 

 先日、ネットフリックスのドキュメンタリーで「選手が試合中に警察犬に噛まれたことでアディショナルタイムが伸び、そこでドラマが起きた」というイングランドのエピソードを見た。英国ではかなり有名な話らしいが、わたしはまったく知らなかったし、このような例は他にもいくらでもあるだろうとは思う。

 

 それでも、現時点でのわたしが知る限り、今回の日本代表に起こったことは、かなり珍しいケースである。

 

 国によって、人によって違いはあるものの、サッカーにおける監督とはリーダーであり最高責任者である。選手と近しい関係を築こうとする者がいる一方で、あくまで一線を引き、ドライに徹する者もいる。いずれにせよ、そうした姿勢の根底にあるのは、自らの統率力、影響力を高めたい一心だと言っていい。

 

 チームをもっと強くしたいから、外からアドバイザーを連れてくる――そう言われて喜ぶ監督が、世界のどこにいるだろうか。

 

 実は、似たようなケースはJリーグの創設期にならばあった。肩書としての監督は日本人。ただし、実質的な権限を持つのはブラジル人。そんなチームがいくつかあった。いまではすっかり陽気なキャラとして認知されている解説者の方が、あのころは凄まじい怒り、殺気を全身から漂わせていたことを思い出す。

 

 あのころは、選手にも、メディアにも、そして監督をやっている当人たちにも、「まだまだ日本人は外国にかなわない」という諦めがあった。だからこそあんな無理が通ったのだろうし、もう一つは、「チームのためになるのであれば自分のことなど」という日本人らしい自己犠牲の精神も影響していたかもしれない。

 

 負ければ、変わらず責任を問う声は自分に向けられる。にもかかわらず、勝った際に得られる名声は、確実に削られる。必ずや、功績者としてアドバイザーの名をあげるものが現れる。

 

 監督個人にとって、トクになることは何もない。

 

 ではなぜ、Jリーグ初期の日本人監督たちは、ノー・メリット、スモール・リターンにしかならない人事を受け入れたのか。

 

 自分に自信がないから? 無能を自覚しているから? それとも、自分がどうなってもいいと思えるぐらい、チームを愛していたから?

 

 どれほど世界一から遠ざかろうとも、ブラジルの歴代監督はペレをチームに招き入れようとはしなかった。どれほど逆風にさらされようとも、ハリルホジッチは公にオシムの助言を仰ごうとはしなかった。監督としては、ある意味、当然のことである。

 

 だが、当然ではない、そして決して受け入れやすくはなかったであろう案を、今回の森保監督は受け入れた。正直、わたしは驚嘆している。

 

<この原稿は22年9月22日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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