NHK大阪が制作した「阪神矢野 どん底からのラストデイズ」という番組を見た。今季の阪神矢野監督に密着したドキュメンタリーである。
おそらくは今年こそ阪神が優勝するのでは、との期待を前提に企画されたものだと思うのだが、ファンとしては大いに楽しませてもらった。そして、改めて痛感させられた。
内部のことは、内部の人間にしかわからない。
結果的に世間から総スカンを食らうような策であっても、そうしなければならなかった理由が内部にはある。自らの判断を後悔したくなる時もある。多くの判断が、「51対49」ぐらいのギリギリのせめぎ合いの中から下される以上、当然と言えば当然だ。
同じことは、たぶん、森保監督についても当てはまる。
だがら、いまわたしが日本代表について抱いている不安のほとんどは、きっと、杞憂である。部外者の懸念に内部の人間が気付いていないはずがない。
ただ、そう踏まえた上で、戯れ言として片づけられるのを承知の上で、それでも気になるところがある。
旗手の処遇である。
誰を使うか使わないかは、監督の専権事項である。先日の欧州遠征で、森保監督は旗手を使わなかった。間違いなく、監督には監督なりの考えがあったのだろう。
一方、わたしが旗手の立場だとしたら、失望している。とはいえ、そのこと自体は、プロとしてはよくあることだ。旗手を使うべきだった、あるいは何らかの配慮をすべきだった、などとはまったく思わない。
ただ、間違っても「お気に入りじゃないから使われなかった」などと思わせてはいけない。監督は選手に対して必ずしも平等である必要はないが、それでも、平等であるフリはしなくてはならない。
何が言いたいのかというと……柴崎である。
4年前、彼は間違いなく日本の中核だった。彼がいなければ、決勝トーナメント進出もなかった。だが、今は違う。仮にメンバーに入ったとしても、先発として出場することはちょっと考えにくい状況にある。三笘のようなジョーカーになる、とも思えない。
しかも、アジア最終予選での柴崎は、敵地でのサウジアラビア戦で敗戦に直結する大きなミスを犯している。国に、あるいは監督によったら、二度と代表に呼ばれなくなってもおかしくないほどのミスだった。
それでも、森保監督はすぐに挽回のチャンスを与えた。正直、柴崎がその期待に応えたとは言い難いが、それでも、代表選手という立場を剥奪されることはなかった。今回の欧州遠征でも、エクアドル戦で出場の機会を与えられた。
チャンスを与えられたこと自体に問題はない。わたしが気になるのは、機会を与えられなかった旗手、そして彼と年齢的に近く、同じクラブでプレーしていた選手がどう感じるか、である。
基本的に、選手にとっていい監督とは、自分を使ってくれる監督である。自分が使われているのであれば、たとえ外されたのが親友だとしても、憤りに同調するとは限らない。
ただし、旗手の落選がプラスに働くこともない。
だが、もし大逆転で旗手がメンバーに入るようなことがあれば……チームの主流となりつつあるフロンターレ出身者たちの間に、肯定的な化学反応が起きるのでは、と門外漢は夢想する。
<この原稿は22年10月6日付「スポーツニッポン」に掲載されています>
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