プロ野球セ・パ分裂から2年目のシーズン。さまざまな試練を耐え忍んで迎えた開幕だった。最初の試練は、開幕前に行われた大阪トーナメント大会に参加する遠征費がなかったこと。球団財政が泥沼化し、選手の給料はおろか寮の食事にも事欠くありさまで、カープ自体が風前の灯であった。しかし、この窮地で石本秀一監督が後援会を結成し、後援会費によって球団経営を賄うという妙案を生み出した。これが功を奏し、球団経営は見る見るうちに快方に向かう。

 

 苦境を乗り越えたかに見えたものの、さらに試練が襲いかかる。セントラル・リーグ連盟から、カープだけ試合を組んでもらえないという事態に陥った。ここはカープの重役陣が連盟と話し合いを持つことで、何とか開幕にこぎつけた。

 この喜びもあってか、開幕戦は新人の杉浦竜太郎の好投に支えられ、見事に勝利したことは前回のコラムで述べた。この第二の試練を乗り越え、ようやく通常のペナント争いができると思った矢先、またも事が起きるのである。

 

相次ぐ“カープ潰し”

 セ・リーグはこの年、開幕を前に西日本パイレーツが消滅し、パ・リーグの西鉄クリッパースに吸収される形で、西鉄ライオンズとしてスタートしていた。これにより、セ・リーグは7チームとなる。それはそれでスタートするはずだったが、奇数チームでリーグ戦を争うと試合編成上、1チームは試合が組めないことになる。

 

 さらに、カープは大洋ホエールズに吸収合併されるのか、あるいは解散するかで揺れていた。その余波からか、カープは連盟から冷遇される。“1チーム減らせないか”と、当然のように、その矛先がカープに向けられたのだ。

 

<セ・リーグは7球団となり、日程の編成が難しくなったという実情があった。6球団に移行したいという気運が高まり、貧乏球団である広島カープが狙われた、というわけである>(『カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』駒沢悟監修・松永郁子著、宝島社)

 

 加えて、連盟は「3割規定」というものを持ち出してくる。内容はこうだ。

<勝率が3割を切ったチームの処置は理事会が決める――>(同前)

 これは前年に勝率3割を切った球団がカープだけであることから、カープを抹殺するための計画であることは、誰の目にも明らかであった。

 

 カープの行く末はいかなるものか、と案ずるばかり。一難去ってまた一難とはよく言ったが、この言葉はこの時期のカープのためにあるようなものであった。こうした仕打ちの現れか、2年目のシーズンは、地元・広島総合球場での試合はわずか14試合しか行われなかった。地元では強い、とされたカープにとっては不利な日程だ。加えて、暑さとの戦いにもなる8月は全てビジターゲームとなり、連戦の疲れを地元で癒すこともできなかった。まさに、“カープ潰し”ともいえる試合興業が続いた。

 

 一方、ちょうどこの頃、日本はおろか世界中があっと驚くことが起る。開幕戦が行われた昭和26年の4月7日からわずか4日後のことだ。当時、日本の国際社会への復帰に向けた明るい兆しが見えていた。年内に講和条約締結かと噂されはじめ、日米関係も良好。前年勃発した朝鮮戦争では、アメリカからの軍事物資調達による特需で国内経済の前途も明るかった。

 

 こうしたアメリカの動きに影響を受ける日本は、アメリカの大人物が絡む刷新人事にあっと驚かされてしまうのである。日本の民主化政策を担ったGHQ連合国総司令部司令長官のダグラス・マッカーサーが、時のハリー・S・トルーマン大統領に更迭されてしまうのだ。日本の非武装化と民主化、さらに自立化の任務を背負い、あの厚木基地に降り立った昭和20年8月30日から数えて、5年7カ月あまりが経過した日のことだった。

 

さらばマッカーサー

 当時、トルーマンが出した声明文の一部はこうだ。

<私は極めて残念なことではあるがダグラス・マッカーサー元帥がその公式の任務にかんする諸事項において、米國ならびに国際連合の政策にたいし衷心からの支持を與(あた)えることが出来ぬとの結論に達した>(「中国新聞」昭和26年4月12日)

 

 こうした結論にいたった理由には、当時、朝鮮半島を起点とするアジアを中心とした世界の勢力図が不安定であったことが上げられよう。いつぞや、第三次世界大戦が勃発してもおかしくない状況下であった。

 

 トルーマンの声明の中には、こうした記述もある。

<もし共産主義の支配者が第三次大戦の到来を欲しさえすれば、第三次大戦は起こり得るであろう>(同4月13日)

 しかし、そういった紛争状態だけは避けてきた自負はあった。

<われわれは第三の世界大戦を防止しようとしているのである>(同前)

 

 ならば、マッカーサー解任の理由とは何であろうか。トルーマンの米方針演説には、こうある。

<われわれはなぜ満州と中国本土を爆撃しないのであろう、またわれわれはなぜ国府軍の中国本土作戦に援助を与えようとしないのであろうか>(同前)

 と前置きをしたうえで、

れらのことを行うならば、全面的戦争開始の重大な危機に直面することになろう>(同前)

 

 こうして行きつくところとして、

<われわれは広範な戦闘にまき込まれ、全世界においてわれわれの仕事は測り得ないほどの困難さを増すことになろう>(同前)

 

 こうしたトルーマンの方針が伝えられた。他なる憶測として、以前、トルーマンとマッカーサーの間で38度線を越える、越えないという議論が行われたこと。さらに、翌年に控えたアメリカ大統領選挙におけるトルーマン自身への支持団体からの圧力など、さまざまな憶測を残し、解任劇は粛々と進められた。

 

 一連の更迭発表を受けた国民感情はというと、マッカーサーが日本の国際社会復帰まで、任務を全うするというのが大方の予想であった。当時の官房長官のコメントは実に国民の意志を実に見事に反映していた。

<岡(勝男)官房長官(後、外務大臣)が『元帥の留任運動がおこるかもしれない』と語っていることは、ある意味で日本人全体の気持ちを率直に表現したものともいえよう>(同4月12日)

 

 大戦で戦火を散らした日米関係も完全に落ち着きを取り戻し、民主化されていく国内情勢下、マッカーサーは日本の復興に向けてなくてはならない人物になっていたようだ。留任を願ったというのは、人情にもろい日本人らしい感傷であったろう。

 

揃わぬ投手陣で奮闘

 さて、カープの話に戻ろう。カープは開幕戦に見事勝利した後、次なる第2戦と第3戦が、同カードの阪神戦であった。4月8日、ダブルヘッダーとなったこの日、カープは第1試合の先発に再び新戦力を立てて挑む。広島商業出身で、南海(昭和24、25年)から移籍してきた萩本保だ。地元の広商出身とあって注目が集まる中、試合はカープが3回裏に2点を取った。援護を受けた萩本は4回まで阪神打線を無得点に抑えた。

 

 しかし、息切れしたのか5回裏に3点を失って、6回からは石川清逸にマウンドを譲った。それでもカープは、7回裏に阪神先発の駒田桂司がフォアボールを出すと、2本のヒットを連ね、3点を上げて同点に。これには、広島総合球場のファンも沸きに沸いた。さあ、開幕連勝目指して――と想像は膨らんだが、9回表に石川が打ち込まれ、4点を献上。3対7でゲームセットを迎えた。ここぞという場面で、投手力の差があらわになった試合だった。

 

 しかしながら、見せ場はあった、次の試合こそは、と意気込んだ。ダブルヘッダー第2試合では、先発に前日投げた杉浦を立てた。ダブルヘッダーの初戦は休ませたといっても、前日、完投した杉浦を立てるとは、この年のカープの台所事情がいかに苦しかったか、である。

 前日ほどのスピードがない杉浦は、2回表に4点を失い、苦しいスタートとなる。ところが、この杉浦がバットでお返しとばかりに、3回裏に左中間に2塁打を放ち、反撃ののろしをあげた。打順は1番に返って、白石敏男(後、勝巳)が死球で出塁すると、その年から野手に専念した2番・武智修も内野安打で出塁。ノーアウト満塁と俄然、盛り上がりを見せる。

 

 さあ、クリーンアップの3番、長持栄吉のバットに期待がかかった。しかし、長持は併殺崩れで何とか1点を上げるのが精いっぱい。カープの見せ場はここまでだった。

 阪神は4回表と、9回表にも1点ずつを加えてダメ押し、6対1でカープを蹴散らした。ダブルヘッダーを連勝して、面目を保った。傍らでカープは点差を開けられても、先発の杉浦が九回まで投げ切らなくてはならず、投手陣不足が否めなかった。

 

 ダブルヘッダーを終え、翌日の中国新聞には、中耳炎を患っているエース長谷川良平について、こう記された。

<手薄なピッチングスタッフに加えて、長谷川の故障欠場が大いにくやまれる一戦であった>(同4月9日)

 カープはエース長谷川の復帰を待ちながらも、杉浦が彗星のごとく台頭してきて、急場をしのぎながら戦った。ペナントレースに復帰できたものの、カープは戦力が整わなかった。何かが満たされたら、何かが欠けてしまうという、カープ草創期のないないづくしの戦いは続いた。

 

 ただし、第三の試練を与えられたことから、それを乗り越えていこうとばかりに選手の気持ちも少しずつタフになっていった。つい前月まで、チームの存続に揺れていたことを思えば、自ずと精神面が鍛えられたのである。さあ、カープの2年目シーズンは、始まった。カープ抹殺の規定である「3割規定」に屈指しない戦いに、ご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年4月8、<9、12、13日)、『カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』駒沢悟監修・松永郁子著(宝島社)、『カープ50年―夢を追って』(中国新聞社)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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