カープが2年目のシーズンを開幕できたことは奇跡に近い出来事であった。さまざまな無理難題が次々に浴びせられる中、遅ればせながらも4月7日に初戦を迎えた。長いカープ史の中でも忘れられないシーズンであったろう。

 

 だが“カープつぶし”はこの年の後々まで尾を引くのである。開幕して約3週間を過ぎようかという昭和26年4月23日時点でカープの試合消化数は、わずか7試合だった。この時点で首位の国鉄スワローズは14試合をこなし、2位の巨人は15試合。最下位のカープより1つ順位が上で、6位の阪神タイガースですら、17試合を消化している。結果、カープはプロ野球史上、セ・パ分裂後において、初の1シーズン100試合以下の99試合しか組まれなかったのである。

 

 ちなみに国鉄はカープ以外の6球団と107試合を消化している。いかに言っても100試合組んでもらえなかったカープ。リーグ内で軽視される存在であった。地元広島では大入り満員であるが、全国各地へ行けば、ファンは皆無で観客動員が見込めないことから、儲けにならぬ――とばかり魅力のない対戦カードとして扱われた。これはセ・リーグ連盟の思いとしては、疑いの余地はなかったろう。

 

 開幕当初の戦力において一番痛かったのは、エース長谷川良平がいなかったことである。長谷川が中耳炎を患ったために、エース不在の時期を開幕から過ごした。そこで孤軍奮闘したのが、新人の杉浦竜太郎だった。この杉浦の奮闘ぶりは前回の考古学で述べたが、長谷川と同じくサイドスローで、カーブのみならず、シュートのキレも鋭かったという。

<杉浦は長谷川に似たサイドハンド投手で、シュートとカーブにかなりの威力をみせていた>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月21日)

 

資金集めも加速

 杉浦と長谷川の二本柱が揃う日は来るのかとファンの期待が高まった中、長谷川の復活の日は意外と早かった。4月26日、名古屋での対名古屋ドラゴンズ戦だった。

 

 長谷川はこの日は、遅れを取り戻さんばかりのピッチングで、名古屋打線をピシャリと抑えた。カープ打撃陣は、長谷川の復帰に触発されたのか、初回、幸先よく2点をあげた。これで勢いに乗る。名古屋軍が繰り出した3投手の児玉利一、近藤禎三、本多逸郎に対し、11安打を浴びせてワンサイドゲームに。中でも大当たりだったのは武智修で、5打数4安打と気を吐いた。シーズン初登板の長谷川は奪三振こそ4つと少なかったが、要所を締めるピッチングで、強力な名古屋打線を完封し、復帰マウンドを飾った。この頃から、長谷川が投げれば勝てるという信頼感が、ファンの中で確なものになっていくのである。

 

 長谷川の復帰により、再び戦っていけるという思いがカープに芽生えてきた。後援会による資金集めも当然のように加速していった。

 4月14日の中国新聞には、恒例となった<カープ支援金>の見出しが躍る。この冒頭に、<四千三百二十三円五十銭>と書かれ、さらに出資先として<呉市米国中国地方民事部従業員有志>とある。

 

(写真:「中国地方民事部」が置かれた呉市の建物 呉市文化スポーツ部文化振興課市史編さんグループ提供)

 戦前から軍艦の造船の町とされた呉市には、民事部とイギリス連邦軍が駐留していた。民事部とは、アメリカによるGHQ連合国軍総司令部の出先機関で、「呉市米国中国地方民事部」には、現地の日本人職員が勤務していた。アメリカ軍からの占領政策を担う従業員からの献金であった。

 

 これはあくまでも筆者の推測になるが、日本人の従業員のみならず、米国からの民政を担うアメリカ人も一緒にカープに募金したのではなかろうかと――。

 この疑問を呉市文化スポーツ部文化振興課市史編さんグループに尋ねた。

「可能性はあるかもしれません。お金を集めているとき、一緒に出そうとなったかもしれませんね」

 

 この日の新聞には、呉市中国地方民事部以外に6つの企業、団体、店舗からと、個人では11人からの寄付が、奉加帳のように記載されていた。「累計百九万三千七百五円九十七銭」と報告された。カープの石本秀一監督が、3月20日、広島県庁前で後援会の結成を呼び掛けてからわずか1カ月足らずで、100万円を突破したのである。過去にも書いたが、カープの1カ月の給料をはじめ、出費が80万円から100万円の頃であったことからして、この集金システムが継続できるならば、カープ球団の経営が改善していくことが、明らかになった。

 

石本✕山本の師弟対談

 この時期に、石本監督は、南海の山本一人(旧姓・鶴岡)と新聞紙面上での対談を行っている。この山本こそ、広商時代に石本が育てた名選手であり、またプロ入り後、監督として名将といわれた人物である。山本は育て親ともいえる石本の苦労話から、その同情を率直に語っている。この時期のパ・リーグは、山本率いる南海が最強時代に突入していき、後に「100万ドルの内野陣」と称えられた鉄壁な守備を築いていくのだ。

 

 この時期の山本は監督としての思想も明解であり、指導者としての伸び盛りを迎えていた。山本は言う。

<「結局、よい選手と金がなければこの目的は達せられない、監督の責任はこのよい選手と金をどう動かして立派な成績を収めるかにある」>(「中国新聞」昭和26年4月15日)

 

 セ・パ分裂時の選手の引き抜き合戦がひと段落し、これらを振り返った山本らしい言葉であった。ただ、山本は石本がカープにおいて、金集めに奔走していることに、素直に同情を寄せた。

<「ところが石本さんのところは金はないし、選手はなしでこういっては失礼だが、いい成績を挙げられないのが当然で、その点本当にお気の毒だ」>(「中国新聞」昭和26年4月15日)

 

 山本が恩師・石本の立場をおもんぱかりながら、対談が始まった。かつては同じ釜の飯を食い、辛苦を共にした仲とあって、<「われわれ同業者として黙視するわけにはいかない」>(同前)と、温かい提案を持ち出した。パ・リーグの選手会からの提案として、パ・リーグの選手らが節約をし、そのお金を出し合おうというのだ。

 

<「それで、同業者のよしみでパ・リーグ選手会一同からコーヒー代でも節約して援助しようということになっている」>(同前)

 セ・リーグ内で“カープつぶし”ともいえる圧力に苦しめられている球団に対し、パ・リーグ選手会がコーヒー代を節約して危機を救おうというのである。

 

 この山本の申し出に対し、石本はしんみり答えたという。

<「ありがとう、しかし、その好意を小遣として選手に渡すわけにはいかんし選手も望まぬだろう。支援金などと一緒にして給料やその他の支払いに充当して好意を無にしないようにするよ」>(同前)

 

 いかなるときも原理原則に従う石本らしい返答であった。プロ選手らに直接渡せば、すぐに使ってしまうような、小遣いとしてではなく、カープ支援金という形にし、いったん球団に入れてから、正式に支払われる給料にするというのだ。パ・リーグの選手会から寄せられる思いを無駄なく、確実な給与にして渡したいというのが石本であった。

 この対談の話がいつ実行されたかは定かでないが、石本と山本の師弟愛とでもいう、固く結ばれた絆が窺えた。

 

 この対談の中で、石本の野球人生の中から出てきた言葉であろう、つぶやいて、嘯いたものでもあろう、こんな言葉があった。

<「ぼくのように金の苦労ばかりしている監督なんてプロはじまって以来のことでアメリカにも例はないだろう」>(同前)

 

 石本はかつて、広商監督時代に山本(当時・鶴岡)らを率いてアメリカに野球遠征をした。これは、以前の考古学でも触れたが、広商野球部が、昭和6年の春の選抜大会で全国優勝を果たし、毎日新聞社からの報奨としてのアメリカ遠征が与えられたものだ。

 何気ない一言であったが、野球の本場、アメリカにも例がないといえるほど、石本自身は、粉骨砕身で連日後援会づくりに奔走していたのだ。

 

マッカーサーの後任決まる

 さて、この時期、アメリカの刷新人事により、日本の民主化政策を担ったダグラス・マッカーサー元帥が、更迭されたことは、前回の考古学で述べた。

 後任者の名前は、マシュー・リッジウェイといった。マッカーサーの後に、日本の民主化政策を担う人物なのである。

 

 彼はヴァージニア出身で1917年(大正6年)、陸軍士官学校を、35年(昭和10年)に陸軍大学を卒業した。42年(昭和17年)に歩兵師団長となり、欧州派遣され、第十八空挺軍司令官となる。その後に、陸軍参謀次長室付となり、朝鮮戦争勃発の年の12月23日、第八軍司令官に任命され、朝鮮戦線を転戦した。就任時は56歳だった。

 

 ハリー・S・トルーマン大統領は彼にいったい何を託したのか。明確な報道は避けられていた。前任のマッカーサーに対し、アメリカが打ち出す政策に一風違った動きが見られ、その動きに対し、疑念が残ったとされる。

<米統合参謀本部とマッカーサー元帥の間の往復文章はいままで一切秘密にされていたものである>(「中国新聞」昭和26年4月12日)

 

 秘密とされるはずの文章が、日本で幾度かマッカーサーの公約であるかのように伝えられたことが、トルーマンの気持ちに触ったのではなかろうか。

<結局、これらがトルーマン大統領にはたしてマ元帥が米国政府の政策を完全に支持しているのかどうかという疑問を抱かせたのである>(同前)

 

  日米講和条約の締結が、数カ月後に控えている日本。日本海を隔てた対岸においては、朝鮮戦争の行く末の鍵を握るアメリカである。この刷新人事では、些細な感情のもつれがあったのだろう。

 

 話をカープに戻そう。ようやくエース長谷川が復帰。投手陣は長谷川と杉浦を中心としながら、なんとかやっていこうと動き出すのである。勝率3割は大命題であり、死守しようと選手らも奮闘する。こうした中、根強いファンが、カープの後援会を結成しこの集金システムが驚くべき成果となり、連日、中国新聞紙上に掲載されていくのだ。

 

 さらに、日米間の揺れ動く国際情勢は、快方へ向かっていき、はや、講和条約の締結が今か今かと待たれる様相になる。これにならうかのように、カープの前途にもようやく明るい兆しが見え始め、期待が持てるシーズンとなる。次回の考古学では、カープの集金システムが大きなうねりとなり、後援会結成式へと着実に歩む中でのトピックスを紹介しよう。ご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月21日)、「中国新聞」(昭和26年4月12日、14日、15日)、『カープ50年―夢を追って―』(中国新聞社・広島東洋カープ)

【取材協力】

呉市文化スポーツ部文化振興課市史編さんグループ


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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