プロ野球のレギュラーシーズンはパ・リーグの熾烈な優勝争いや、村上宗隆(東京ヤクルト)の日本人最多56号達成など、見どころの多い終盤戦でした。日本シリーズは、ともにリーグ連覇を飾ったヤクルトとオリックスが2年連続で激突。両軍どちらも、ショートに3年目の若手を起用しているところも興味深いところですね。

 

 それでは、今月も私の球論にお付き合いください。

 

“ゴジラ”松井秀喜の50号

 福岡ソフトバンクが優勢だったパ・リーグの優勝争いは、最終戦でソフトバンクが千葉ロッテに逆転負け、追いかけていたオリックスが東北楽天に勝利したため勝率で並びました。こういう接戦は過去にもありましたけど、勝率まで一緒になったのは史上初です。結局、直接対決の成績でオリックスに軍配が上がりましたが、どうせならもう1試合見たかった(笑)。

 

 ただ、いずれにせよソフトバンクはチームの雰囲気があまりよくありませんでした。ターニングポイントだったのが9月23日、本拠地でのロッテ戦です。3対2でリードして迎えた9回表に守護神のリバン・モイネロが中村奨吾にレフトテラス席へ痛恨の同点ホームランを浴びました。その後、延長戦の末に敗れたことでオリックスに隙を与えてしまいましたね。

 

 一方のセ・リーグは、最後の最後まで村上の独壇場でした。王貞治さんの記録を塗り替える56号が出たのは、最終戦の最終打席。どこまでも劇的な男です。そこで思い出したのが、2002年の松井秀喜。本拠地シーズン最終戦の最終打席で大台の50号を打ってみせました。松井は翌年からメジャーリーグに移籍したので、東京ドームで最後の打席でもありました。

 

 実はこれにはドラマがあって、ホームランの直前、松井はファールフライを上げているんです。3塁コーチャーだった私も「あ~ダメだ」と見ていたら、なんとヤクルトのキャッチャー米野智人が目測を誤って捕り損ねた。それで命拾いした松井は打ち直しの6球目に、五十嵐亮太の直球を左中間スタンドに運んだのです。村上に負けず劣らず劇的な一発でした。

 

「昆布茶持ってこい!」

 今季に話を戻すと、ヤクルトとオリックスはショートのレギュラーが、それぞれ長岡秀樹と紅林弘太郎という高卒3年目の選手です。長岡は阪神との開幕戦でスタメンに抜擢されると、いきなり4安打。その後も大きく躓かず規定打席に到達したというのは本当に立派です。昨季から1軍で出ていた紅林も、持ち味の強肩と身体能力を存分に発揮しましたね。

 

 私も天理高から巨人に入り3年目で初めて1軍に上がりましたが、彼らのようにはプレーできませんでした。仕事と言えば、長嶋茂雄監督のお茶汲み。後楽園球場の横長のベンチに座っていると、横から「ヤストモ、昆布茶持ってこい!」と言われるんです。監督の隣が若手筆頭の自分の定位置でしたから、監督が蹴り飛ばした灰皿を片付けたりもしていました(笑)。

 

 長岡と紅林に関して言えば、セカンドに山田哲人、安達了一という頼れる先輩がいるのも大きいですね。頻繁にコミュニケーションを取って技術を学んでいるのでしょう。私が巨人でショートをしていた時のセカンドは篠塚利夫さん。2学年の上のシノさんには、合宿所から後楽園球場までの往復を車に乗せてもらうなど、グラウンド外でもお世話になりました。

 

 ただ、当時シノさんはマニュアル車のBMWに乗っていたのですが、渋滞にはまるとギアチェンジが大変。だから助手席に座る私がギア係をやるんです。シノさんがクラッチ踏んだらローに入れて、ブーンっと加速したらまたクラッチを踏んでセカンドへ。セカンド、サードってベースの話じゃありませんよ? なぜか移動中まで二遊間の連係を磨いていましたね(笑)。

 

 最後に、すでに来季へ向けて動き出したチームもあります。埼玉西武は教え子の松井稼頭央が新監督に就任しました。プロ入り後、ショートに転向した稼頭央は、試合に出て打席に立って、どんどん成長していった選手でした。だからこそ若手にチャンスを与え、良い選手を育ててほしいですね。当然、優勝も期待していますから、ぜひ頑張ってもらいたいです。

 

 それでは、また来月お目にかかりましょう。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良)を務め、無事"完走"を果たした。


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