親会社のないカープが、プロ野球チームとして存続するためには、とにもかくにもお金が必要だ。広島県内各地に後援会が設立され、こうした県民市民ら一人ひとりが後援会費を捻出する日々が始まった。折もおりカープ初代監督、石本秀一の愛弟子である、南海ホークス、山本(鶴岡)一人監督からの<「パ・リーグ選手一同からコーヒー代でも節約して援助しようということになっている」>(「中国新聞」昭和26年4月15日)という、かつての恩師への恩返しともいえるコメントにカープファンは心温まる思いであったろう。

 

米兵宿舎からの拠金

 この山本こそ、石本のスパルタ仕込みで、猛練習が生み出した名内野手で、その後、プロで超一流の監督として名を馳せるのである。後に山本は野村克也など、これまたプロ野球会の名選手、名監督らを育てて行くのである。

 

 この鶴岡(※後の山本のこと)が生まれ育った町が、広島市から東南部に約25キロ離れた呉市であった。第二次世界大戦に向かう日本にあって、軍艦製造の中枢を担い、かの戦艦大和を生み出した町でもあった。元々野球熱の高い土地柄であり、阪神の藤村冨美男・隆男兄弟、昭和50年、ジョー・ルーツ監督の退場劇にさらされた後、カープの代理監督を務める野崎泰一(呉港中)の出身地であった。

 

 戦前は、彼らによって呉港中学が黄金期を築き、広島商業の鶴岡一人らと広島県下で熱戦を繰り広げるのである。野球といえば呉――。呉といえば野球――。こうした輝かしい往年の時代があったのだ。こういう土地柄の人々は野球のために身銭をきることをいとわない人たちでもあったろう。

 

 この頃、中国新聞社の<カープ支援金25日>(「中国新聞」昭和26年4月26日)には、「三千四百円、呉市広町米軍北官舎従業員一同」と、職場で集められたお金が、中国新聞社に届けられたとある。これは前回の考古学で紹介した「呉市米国中国地方民生部」に続いての、占領政策を進め、米軍の官舎に勤める従業員からのものである。民政部の従業員らが募金するのなら、わしらもせねばとなったのかもしれない。

 

 占領政策をサポートする日本人従業員からの拠金は、カープを潤していく。このことを呉市史編さんグループに聞くと、「呉市は昭和20年の10月からアメリカ占領軍が入ってきて、翌21年2月から5月までの間で出ていき、代わりにイギリス連邦軍が入ってきた、と言われています」という。「実際に昭和26年の(カープに募金する)時期まで米軍が駐留していたのは、新しい発見かもしれません」とのことだった。

 

 呉市広地区に残る米軍の駐留のための、北官舎に勤務する従業員についてであるが、その官舎の痕跡が呉市史に伝えられている。地図上においてアメリカ第10師団第41師団司令部の工員官舎の北側に「官舎」の文字がみてとれる。ここに勤める従業員からの献金であったようだ。

 

 いずれにせよ、野球に熱い呉市民の思いが、資金難で困窮するカープへ寄せられ、その原資となったのだ。

 

米韓関係を象徴する出来事

 カープが誕生して2年目の昭和26年、連合国軍の中でもとりわけ、アメリカの影響を強く受けてきた日本を占領政策の先頭に立って指揮してきたダグラス・マッカーサー元帥が、ハリー・S・トルーマン大統領によって更迭された。これは前回までの考古学で紹介してきた通り。さあ、任務のないマッカーサーは帰還するのみである。

 

 日本を発つ日は、4月16日とされ、前日に天皇陛下からのご訪問があったとされる。

<天皇陛下は十五日正午米大使館にマッカーサー元帥を訪問、お別れのあいさつをなさった>(「中国新聞」昭和26年4月16日)

 明けて16日、午前7時21分、マッカーサー専用機のバターン号は、元帥とジーン夫人、令息アーサー君を乗せて羽田空港から飛び立った。当初、前日まで「蛍の光」を奏でながらお別れすることが予定されていたが、当日は少し違ったようだ。

 

<マッカーサー元帥の偉業に全国民が感謝をささげたこの日、全都は日の丸と星条旗の波に包まれて『さようなら』と『万歳』の惜別のあらしに渦巻いた>(「中国新聞」昭和26年4月17日)

 日本人にとってマッカーサーの功績は大きかった。連日、マッカーサーの名前を聞かない日がないほど報道され、復興支援策も細部に及んだ。

 

 その大役を終えたマッカーサーが、本土アメリカの地を踏んだのは、カリフォルニア州サンフランシスコ・ナショナル空港であった。そこで、エルマー・ロビンソン市長、アール・ウォーレン州知事らに出迎えられ大歓待を受けたのであった。タラップを降り立ったマッカーサーの前に、韓国人少女が待ち受けていた。そして、マッカーサー夫人に花束を手渡したのだ――。

 

<マッカーサー元帥夫人は出迎えた七歳の韓国人少女から花束を抱えて、目に涙を浮かべながら、『本当にすばらしいわ』と喉(※声のこと)をつまらせた>(「中国新聞」昭和26年4月19日)

 この出来事は、まさにアメリカと、当時の韓国との関係を如実に表していたと思われる。自由主義国家と、共産主義的な国家の狭間に戦火が飛び交う朝鮮半島で、韓国軍に援軍の指揮を執ったマッカーサーである。せめてもの心労援助に感謝したいと、韓国人少女が選ばれたのは想像に難くない。

 

 世界では揺れ動く主義主張の争いが起き、その鼓動を感じる中、カープ後援会の立ち上げに一縷の望みにかけた石本の行脚が、熱を帯びてきた。この後援会を石本が躍起になって結成していたのは、当然ながら、球団財務をなんとか立て直し、カープ球団を軌道に乗せようという目論見からだ。

 

監督が資金集めの日々

 後援会員は年間200円の資金を、年間10回に分けて、20円ずつ給与天引したり、町内会で集金したりと、さまざまな方法を駆使して蓄えた。この後援会構想は、石本の発案とあって、やはり本人が先頭に立たなければならない。野球好きやお世話が好きな人に会い、「カープのために後援会をつくってほしい」とお願いし、“石本に言われたのならば”と地域の名士や、世話人が動き出す。

 

 また、石本は各職場のお昼休みを狙い、その職場の人たちを説き伏せた。夜は夜で、友人・知人を頼り、後援会の結成のお願いをして回った。当時、ナイター設備を持たないカープは昼間の試合ばかり。石本は試合の指揮を執った後、夜は後援会づくりに出掛けた。地元広島でずっと試合があるのなら、監督とお金集めの二役を担うことも不可能ではなかろう。しかし、全国行脚するプロ野球とあって、東京や大阪など、遠征に行けば、当然ながら資金づくりはストップしてしまう。

 

 ここで石本は手を打った。助監督の白石敏男(後の勝巳)と主将の辻井弘を呼び出したのだ。

<「白石君、辻井君、やっと球団は存続することになったが、会社に頼っていたのでは、また、そう行き詰ってくる。ワシは警察の募金や、球場前のタルでファンの熱心さがようわかった」>

<「自分で県民一人、一人に頼んで回って拠金してもらうことにする」>(「読売新聞」カープ十年史『球』昭和34年連載第59号)

 

 すると、白石、辻井がこう聞き返す。

<「そんな県民一人、一人といってどうするんですか」>(同前)

 

 ここで石本は驚きの言葉を発するのだ。

<「ヤミ夜の鉄砲でも数多く撃てば何かに当たろうではないか」>(同前)

 まだ終戦間もない時期のことである。相手を攻めるための例えであろうが、闇夜でも一つでも多く鉄砲の弾を打ち続け、射止めるというのだ。

 

 どうにかしなければならないと必死の決意の言葉。ここで、石本は切り出す。

<「それで、君たちに頼みがあるんじゃが…」>(同前)。

<「一つ、公式戦には二人で話しあってチームを采配してくれんか」>(同前)

 

 こうして広島を離れ、遠征に出る際は、監督は広島に残って、助監督と主将で采配を振るうということになったのである。資金に窮した時代を乗り越えるため、長期間に渡り監督が采配をしないでお金を集めに奔走するという日々が始まるのだ。

 

 しかし、監督不在であっても、この年のカープは奮闘した。前年、の勝率2割9分9厘と3割も勝てなかったカープだったが、3割を超える勝率を死守するのである。

 

 球団の資金集めを、現場の監督が行いながらペナントを戦うなど、他の親会社のある球団の中では、考えられまい。この超絶な石本の人間力でもって球団財政を立て直していくのだ。こうした中、ついに晴れの日の広島カープ後援会の結成披露式へと向かう。次回のカープの考古学では、後援会結成式と共にカープの懸命な戦いをキャッチアップする。乞うご期待。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年4月16日、17日、19日)、「読売新聞」カープ十年史『球』昭和34年連載第59号、『呉市史第八巻』(呉市)

【協力】

呉市史編さんグループ


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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