カープ2年目のシーズンの苦労はなんといってもお金だ。親会社がないことから球団運営資金に事欠いた。それを、石本秀一監督が生み出した後援会構想により、県民・市民から寄せられる後援会費や、球場前に置かれた酒樽に投げ込まれる、いわゆる“たる募金”によって、なんとか賄っていくのだ。

 

 また、この年はセントラル・リーグ連盟からの「第二の試練」に苦しめられたシーズンでもあった。それはカープの試合数が99という、数字に如実に表れている。シーズン中、試合を消化できなかったというよりも、完全なペナント外しといえるほど、試合がない時期があったのだ。入場料収入から資金を得るプロ野球において、経営が成り立たないことを意味する。

 

 特に、この昭和26年のシーズン当時は、勝ちチームと負けチームで、分配される金額も異なっていた。前年からセントラル・リーグ連盟が試合を主催し、勝利チームと敗戦チームで、それぞれ7対3(一部6対4)が分配される仕組みだったのだ。

 

 石本は、このことを新聞紙上で正確にファンへ伝えた。内情を訴えることで、理解を促していき、カープを救わなければという気運を高めていったのだ。

 4月29日の「中国新聞」に、「カープの現況」と題して、石本自らが記した記事から、このことを読み解くとする。実収入が書かれている貴重な資料であるため、詳細に記すとする。

 

 3連戦が予定されていた中でのこと。

<三試合を全部勝っても三十一万五千円、負ければ十三万五千円となり>と自らペンを執って、勝者、敗者によって分かれる、実収入について記している。

 このことから、双方の金額をあわせると3試合で合計45万円のお金が、分配金として、連盟から両チームに支払われることが分かる。全部勝つと、この45万円のうち、勝者側に7割として31万5000円、敗者側に3割の13万5000円、この差は実に18万円という大きな額になる。カープは負けが込んでいることから、分配金でも7割が勝ち取れず苦しんでいた。

 

 さらに開幕は1週間待たされただけでなく、試合消化も遅れをとっていた。いや、遅れさせられていたのであろう。実に試合数が少なく、巨人と比べたら明白である。

<第八節終了時には巨人の三十六試合に比べて広島はわずか十八試合というどう考えても不可解なスケジュール消化表ができあがることになった>(「中国新聞」昭和26年5月15日)

 昭和26年のシーズン、カープは大阪での5月13日の松竹戦(4対3で勝利)を終えてから、なんと次の試合まで9日間も試合がなかったのである。<カープ、また全休>(「中国新聞」昭和26年5月15日)と報じられ、監督や選手らもあきれるより他なかったろう。

 

カープ全休はなぜ

 カープが試合を組んでもらえない――。これは開幕から1週間だけのことではなかった。さらにカープは勝てなかった。よって、試合を行っても連盟から分配される金額は3割の4万5000円(1試合あたり)。試合を減らされてしまうことで、実入りが当然ながら減る。このことに連盟の魂胆を感じずにはいられなかった。

<悪くとれば試合収入を減らし自滅するのを待っているようにも思われる>(「中国新聞」昭和26年5月15日)

 

 カープの自滅を待つセントラル・リーグ連盟の思惑の中で、本当に自滅の道をたどるのか――。

 心強かったのは、県民・市民らによって後援会の結成が相次ぎ、資金を集める手が緩まなかったことだ。石本はホームゲームでは試合の采配をふるうものの、遠征となると采配を白石敏男(後の勝己)助監督と辻井弘主将に任せ、地元に残って知人という知人すべてに会うために奔走する。

 

<面接した大衆の心境を打診して力強く思うのは一人として、支援の手を差し控えようと思う人はない>(「中国新聞」昭和26年4月29日)と広島の県民・市民の力を石本自らが讃えている。

 

 カープの資金源としての後援会員の推移は、この一覧表にある。後援会結成披露式が行われる昭和26年7月29日まで、急速に後援会支部を結成させ、さらに毎月20円の後援会費を給与天引で集めるという、プロ野球史上ない集金システムを完成させる。

 

 この4月29日に新聞紙上で発表された後援会員は5000人。結成を呼び掛けてから、1カ月と1週間だけで、年間100万円もの入金を得られるシステム(4月29日時点)を築いているのだ。しかし、更に石本は強化すべしと、呼び掛けを怠らない。こんどは町内会の組織に目を向けた。

 

<「町内会の動きが躍進していないのは遺憾である」>(「中国新聞」昭和26年4月29日)

 地域活動の拠点となる町内会は、一般的に回覧板などが回され、一斉清掃や、戦時下にはさまざまな配給の知らせなどを担っていた組織である。

 

 ここに目をつけた石本。稼げるものと判断し、その一切すべてをカープのために集金できるシステムとしたのだ。

 4月29日時点で結成された84支部の多くは職場がほとんどであり、町内会組織は数えるほどしかなかった。

 

 町名をあげると、尾長蟹屋、愛宕、若草、稲荷、松川土手、皆実、田中、牛田、銀座、舟入、高須各町、矢口村と、わずか12あまりで、全体の15%にも満たなかった。この数字を正確に分析し、打開策を講じていく姿は、あたかも企業経営者のようだ。こうした取り組みにより、数年後にはなるが、カープ後援会は3万6000人という、大所帯に成長するのである。

 

 こうして石本は、町内会に後援会の結成を呼び掛けるなど、資金集めの手を緩めなかった。しかし、カープ戦が人気のない対戦カードであることに変わりはなかった。最下位にしがみついている中、他球団からお荷物扱いされた。対戦カードが組まれなかったことは、明白であった。

 

巨人による選手の引き抜き

 とはいえ、石本は、選手補強にも力を入れ、シーズン中でもさまざまな選手を入団させている。カープ2年目途中で入団した山川武範もその一人である。

<セ・リーグにあって悪戦苦闘の広島カープ補強は各方面から要請されていたが、二十四日宇野(巨人)、河口(カープ)会談の結果、巨人軍山川武範、三塁手(二七)のカープ入団が正式に決定した>(「中国新聞」昭和26年5月26日)

 

 だが、この補強には、大きな疑念があったとされる。

 カープは初年度、樋笠一夫を入団させた。彼はデビュー1年目にして、年間チーム最多の21本塁打を打って、ファンを驚かせた。というのも、樋笠は前年まで香川県の尽誠学園高校で野球部の監督を務め、教壇に立っていた身である。教師がいきなりプロの世界で年間21本のホームランを打つことは考えられまい。

 

 ただ、こうした選手の素材を見抜いて、鍛え育てるのが石本であった。このことは第22回のカープの考古学で紹介した。ところが、2年目にはあっさりとカープを辞めて四国でしょう油づくりに精を出していた。

 

 驚きの事態になったのは、山川の入団発表が掲載された翌日の5月26日だ。新聞紙上で発表されたのは、地元に帰ったはずの樋笠が、<樋笠巨人入り>(「中国新聞」昭和26年5月27日)と伝えられたのだ。

 

 さまざまな思惑がからみあい、結果、カープファンは大きな疑念を抱いたまま、山川との交換であったかのように、樋笠の巨人入りを見とどけるのである。

 

 初期のカープは、継ぎはぎだらけの球団運営で、なにかと耐え忍ばねばならぬ日々であった。戦争で焦土と化した広島にあって、県民・市民の生活もそうであった。

 

 この時期、着るものはどうしていたのか。「アメリカ、中古衣料の販売会」が、広島市の中央公民館で開催され、6月6日から3日間行われている。「純毛スカート200円」「純綿ワンピース200円」と、カープ年間後援会費と同額のものが、ずらり並んでいる。中には「バーバリーコート1500円」などブランドものもあったが、手に入りやすいものではなかったろう。5月20日、横浜港に着いたアメリカからの支援物資だったが、貿易商社を通じ、直輸入の見出しが掲げられて販売されたのだ。

 

 アメリカから影響を受ける国内情勢においては、かのダグラス・マッカーサー元帥が更迭され、こうした中、日本国として最大の敬意として、<マ(ッカーサー)元帥を終身國賓>(「中国新聞」昭和26年5月16日)と報じられ、その人気はとどまることを知らなかった。

 

 国会において、國賓の扱いまで見直す議論がなされた。「終身國賓」か「名誉國賓」、「特別國賓」など、どの名称があてはまるかなど、法律を見直す動きが加速した。

<閣内では『名誉國賓』の名称で議員提出すべきであるとの見方が有力>(同前)

 日本にはすでにいないマッカーサーであるが、その功績は称えられていた。さらに、昭和26年の夏から秋にかけて、いよいよ講和条約締結かと、国民の期待も自ずと高まり、高揚感がうずをまいて国全体に満ちてきた。

 

 さて、次回のカープの考古学であるが、カープはみたび全休の日程が課せられてしまう。勝てないという以前に、戦うことができないという、違う意味での戦いが与えられた。球団の浮沈がかかったシーズンは夏場へと向かう。さあ、どうなるのか――。また一方では、危機の中で、いよいよ後援会結成披露式がなされ、カープがやっていけることを、ファンにお披露目する。乞うご期待。

 

【参考文献】

『カープ50年―夢を追って―』(中国新聞社)、『背番8は逆シングル』(ベールボール・マガジン社)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけぇカープが好きなんよ~』(トーク出版)、「中国新聞」(昭和26年4月29日、5月15、16、26、27日、6月4日)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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