広島カープは、果たして存続できるのか、危機にたびたび遭遇する2年目(昭和26年)のシーズン。カープが戦う相手は、セ・リーグの他の6球団だけではなかった。親会社のないカープは資金難から、選手の補強はわずかで、幾度となく選手の引き抜きにも遭った。1年目にチーム最多ホームランを記録しながらカープを退団した樋笠一夫が、シーズン中に巨人に入団するということもあった。そんな逆境にも、樋笠の代替選手として巨人から入団した山川武範の活躍で、勝利する試合があったのだ。

 

 巨人から移籍の山川、劇的な一打

 苦し紛れのシーズンであっても、カープ初代監督・石本秀一は、戦力の補強だけは怠らなかったが、やはり広島のクリーンアップを打ち続けた樋笠の損失は大きかった。それだけに新戦力である山川への期待も高まった。山川自身も負けじと、あいさつ代わりといえるほどの最高の一発を放ったのが6月14日、甲子園球場での大洋戦だ。

 

 このシーズンは、カープだけがペナント外しの、試合なしという日も少なくなかった。開幕戦から1週間以上試合なし、さらに4月には5連休、4月から5月にかけて6連休という日程が組まれ、5月には9連休も経験した。試合を戦うための体づくりが求められるプロ野球選手にあって、正直、コンディションを整えるのが難しかったはずだ。連戦に慣れたら、連休となり、休みが続いたかと思えば、連戦になる。いつなんどき試合になるのか、準備を重んじる選手らにとっては体調を保つのが、この上なく難しかっただろう。

 

 5月30日、日生球場で阪神に敗れてから、カープは泥沼にはまり、6月13日、甲子園での松竹戦まで、なんと8連敗を喫した。カープのこの年ワースト記録を更新していた。翌日、同じく甲子園で大洋戦に敗れれば9連敗になってしまう。

 

 さて、6月14日の大洋戦、マウンドに立ったのはエース長谷川良平であった。広島は初回に先取点をあげた。だが大洋は、その裏、先頭打者の宮崎剛(後の大洋監督)が四球を選び、安居玉一が意表をついたバントでうまく攻めたて、3番の大沢伸夫(後の日本ハム監督・大沢啓二の兄)のタイムリーで同点に追いついた。この日、立ち上がりが安定しない長谷川は、さらにもう1点献上し、この回2点を奪われ、あっさり逆転された。

 

 その後、6回裏に大洋4番の藤井勇が長打で出塁すると、つづく杉浦清のライト前ヒットで大洋が3対1とし、この1点がダメ押しとばかり、勝負あったという雰囲気が球場内に充ちてきた。ただ、この日、好投していた大洋の先発・林直明からカープは、高木茂の二塁打などで1点差に追い上げる。しかし、8回は抑えられ、どうしてもあと一歩及ばない。このまま、大洋の勝利で、カープは9連敗か――。試合の大勢は決まったかに見えた。

 

 と、その時、9回に、この男が試合の流れをひっくり返すのである。林の球威に陰りが見え、先頭の辻井弘が二塁打を放つと、手堅く長持栄吉がバントした。長打のある長持のバントを意外だと思ったのか、内野手がファンブルして、ランナー二、三塁とチャンスが広がる。さあ、期待がかかる場面、山川が打席に立つ。ここで大洋は逃げ切りたいと、好投していた林に代え、今西錬太郎を送り込んだ。

 

 山川の集中力も頂点に達していた。カウント2-2から高めの球をバットが捉えた。打球は伸びて、ライトスタンドに突き刺さった。なんと逆転のスリーランホームラン――。山川は移籍後初の大仕事をやってのけたのだ。

 

 この一打で、今まで眠っていたかのようなカープ打線が、息を吹き返した。この回一挙8点をあげ、終わってみれば、カープは12本の安打を浴びせ、10対3の大勝となった。最後まで粘り強く投げ切った長谷川が見事勝利投手となったのだ。劇的な勝利であったことから、カープファンは盛り上がったはずだが、この時の観客は1500人という寂しいものだった。しかし、移籍してきた山川にとっては忘れられない一戦になったことだろう。

 

 職場がこぞって後援会に

 こうした甲子園などへの遠征には、石本は帯同せずに、地元広島に残っていたことは過去の考古学で述べた。では、何をしていたのか。石本がかねてから取り組んできた後援会が陽の目をあびようとしていたのだ。

 

 6月10日、午後1時より、中国新聞社3階ホールにおいて、後援会の各支部代表者が集まり、後援会結成の準備会が行われた。この日までに後援会は130支部に達し、会員8000人となっていた。いつも苦虫を噛み潰したような硬い表情の石本も、この日ばかりは上機嫌であったという。この準備会の目的はというと――。

<支援金百八十万円突破など明るいカープ球団の現状を報告>(「中国新聞」昭和26年6月11日)

 

 お金に一定の目途が立ったとあれば、気持ちもでかくなったことだろう。「後援会員の倍加運動」や、ファンへの「広島での公式戦への会員割引」、「会員のバッジ選定」に加えて、「役員選考委員の選出」などが議題に盛り込まれた。

 カープ財政に見通しが立った証拠として、恒例の中国新聞の「カープ支援金」の欄には、新しい現象がお目見えした。後援会費の集金である。第一次金、第二次金、第三次金といった具合に、月ごとに後援会費も回数を重ねていくことになるのだ。

 

 中国新聞には詳細が明記されている。例えば、6月1日の紙面には、<千二百円、廣島地方経理事務所収入課(第二次)>とあれば、同日には、<一万三四〇〇円、日通広島自動車所後援会(第二次および第三次)>と記されている。他では、6月5日の同紙には、<九百八十円、三和銀行呉支店後援会(第一次)>とある。

 

 これは職場ごとに結成された時期が異なるためだが、4月の結成であれば、4月分が第一次で5月分が第二次であろう。「日通広島自動車所」のように、4月に結成され、第一次を納入し、5月、6月分を第二次および第三次というようにまとめて納入したところもあった。

 

 新聞紙上で、第二次、第三次の支援金を出したと報道されれば、他の後援会支部も刺激されてか、集金する手も早まったであろう。石本は過去、毎日新聞広島支局に勤務した経験があり、記者として世論を喚起し続ける方法を心得ていたと推察される。

 

 樋笠の巨人移籍後、景気のいい話がなかったカープを救うべく後援会構想が現実的に形となっていくのである。集まった後援会支部の代表からは<「五十万円ぐらいの金ならみんなで出し合えばどうにでもなる、とにかくいい選手を引っこ抜いてこい」>(「中国新聞」昭和26年6月11日)と威勢のいいコメントが飛び出し、会場は沸いた。

 

 女子チーム招いた結成披露式典が…

 後援会結成披露式典の準備に大わらわであった石本。日程などが詳細に決まり、準備も整った。7月8日、広島総合球場で挙行されることになり、前日の新聞に見出しが躍った。

<両タイガース迎え親善試合><あすカープ後援會發會式>(「中国新聞」(昭和26年7月7日)

 

 この両タイガースとは、石本の古巣・阪神タイガースと前年結成された女子プロ野球チーム「神戸タイガース」(※)のことである。阪神からカープの存続を願って、セ・リーグトーナメント大会の優勝賞金である2万円が贈られたことは過去の考古学で述べた。その恩とばかり、阪神を招いて、試合を開催することにしたのである。さらに神戸タイガースを招いて、広島の財界名士らのチームと対戦するというのだ。時期は7月初旬で、プロ野球はオールスター戦最中とあって、その間を利用し、後援会幹部らに女子野球チームとの試合で楽しんでもらおうという狙いだった。

 

 しかし、<近く関東の女子プロリーグに参戦する>(「中国新聞」(昭和26年7月7日)ほどの強豪とあって、<お嬢さんのはつらつとしたプレイにがい歌があがりそうだ>(同前)と記事にはある。戦争が終わり、女性の解放もすすんだ。自由が推奨され、野球にも打ち込める日々がやって来たのだ。

 

 後援会が軌道に乗ったと確信したカープは、球団に貢献度の高い後援会の幹部らと、野球でコミュニケーションを図ろうと試みたのだ。その様子は、当日の中国新聞にみることができる。

<製菓会社寄贈のキャラメルやボールのスタンド投げ入れ、女子プロとカープ選手ののど自慢、十名の素人打撃球技会が行われる>(「中国新聞」昭和26年7月8日)

 この素人打撃球技会とは、ホームラン競争のことであり、スタンドインした場合は1万円を進呈することが報道された。後援会幹部らも待ち遠しい一日だっただろう。

 

 ところが、当日は梅雨の名残りもあり、あいにくの雨となったため、翌日に延期された。さらに不運は続いた。9日も雨天にさらされ、両タイガースとの試合をはじめ、一連の催しは中止となったのである。結局、7月29日の対国鉄戦ダブルヘッダーの試合前に後援会結成披露式典が開催されることになった。

 

 この時期のカープは、飛躍を望めば難題がふりかかり、いけるぞと意気が上がれば消沈する出来事を繰り返した。この流れは尾を引いて残るのであるが、まだまだ飛躍できる球団の体制ではなかったことも確かだろう。

 

 こうした中で、一人の男が後援会会長に名乗り出る。石本がこの人しかいないとばかり、推薦をするのである。次回のカープの考古学では、初代後援会会長の指名と、さらに、延び延びになった後援会結成披露式典についてお伝えする。乞うご期待。

 

【注釈】

※神戸タイガースについて、昭和26年7月7日の「中国新聞」には<昨年(昭和25年)七月結成以来気品のあるお嬢さんチームとして定評があり、今年(昭和26年)の成績も五勝二敗と関西で優勝、近く関東の女子プロ・リーグに参加する>とある。掲載された写真では選手は12名

 

【文献】

『カープ50年-夢を追って—』(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和26年6月1、5、11、15日、7月7、8、9、10日)

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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