悲しい知らせが飛び込んできました。プロ野球歴代3位(567本)の本塁打記録を持つ門田博光さんが74歳で亡くなられました。門田さんは僕の中学、高校の先輩です。1988年、門田さんは40歳で本塁打王、打点王の打撃2冠を獲得し(最高出塁率も記録)、リーグMVPに輝きました。「中年の星」「おじさんの星」と呼ばれた偉大な大打者です。この年に開かれた天理高校野球部OB会には僕も名古屋から駆けつけてお祝いの言葉を申し上げたのを覚えています。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 一緒に走るの?

 

 まずは駅伝の話から。箱根駅伝で立教大学は18位とシード権獲得とはなりませんでしたが、私の目には健闘していたように映りました。来年の第100回大会は全国展開するようで、予選会がさらに厳しくなりそうですが選手たちには頑張ってほしいです。立教・新座グラウンドでたまに駅伝部の練習風景を見ます。あれ? と思ったら上野裕一郎監督が一緒に走っている時もあるんです。そんな姿を見たらより一層、応援したくなっちゃうでしょう。

 

 さて、僕の本業の話題にいきましょう。WBCの内定メンバーと辞退メンバーが各スポーツ紙に出ています。辞退したのは巨人・坂本勇人、ソフトバンクの柳田悠岐と今宮健太、オリックス・森友哉、西武・平良海馬。WBCは精神的な重圧が大きくのしかかる大変な大会です。移籍組の辞退はもちろんわかりやすいですが、柳田や坂本は昨年に怪我で戦線離脱したことが影響したでしょう。しっかりとコンディションを整える選択は懸命な判断です。

 

「大谷リリーフ起用」という見出しを昨年末に拝見しました。ただ、リリーフでの二刀流はそれほど簡単ではないんです。僕は徳島インディゴソックス時代に指導経験があります。河載勲(ハ・ジェフン)に8回までセンターを守ってもらって9回にマウンドに上がってもらいました。ところが、試合終盤に彼の打順が回ってくるとブルペンに入れないんですよ。「リリーフならイケるのでは」と言いたくなる気持ちもわかりますが、終盤の打席との兼ね合いが難しい。大谷を投げさせるならば、やはり先発かなと思います。

 

 オーソドックスに大谷を起用するならばDHでしょうが、僕は外野を守らせて吉田正尚をDHに据えることもアリなのかなと感じます。吉田の守備面が若干ばかり不安というのもありますが、大谷の外野守備のレベルもなかなかの見物です。僕が東北楽天でコーチをしていた時です。東京ドームでの対日ハム戦。大谷はライトを守っていました。1アウト一塁の場面。打球は一二塁間を破りライト前へ。一塁ランナーは当然三塁を狙います。が、しかし……。ライトの大谷から矢のような送球が三塁に来て見事、アウト。イチローばりの送球に僕は苦笑いしながら天を仰いだのを今でも覚えています(今でも映像が残っているようです)。外野の守備も任せるとなると大谷にかかる負担は大きいでしょう。したがって簡単な決断ではないですが、外野を守らせることも1つのアイデアだと思います。

 

 原さんを二塁で起用した藤田監督

 

 巨人は2月の春季キャンプの振り分けを発表しました。ドラフト1位の外野手・浅野翔吾は2軍からのスタートとなりました。僕は開幕から1軍スタメンでの起用を希望しています。原辰徳監督が自分で引き当てたドライチなんだから使ってほしいなぁ。

 

 東海大学で活躍した原さんをドラフトで引き当てたのは当時の監督・藤田元司さん。4球団(巨人、広島、大洋、日本ハム)の競合の末、引き当てました。そして、藤田さんはルーキーイヤーから原さんを積極的に起用しました。しかも、開幕当初はセカンドで! 藤田-原ラインで起こったことが原-浅野の間でも起きてほしいなと強く願っています。打順は7番でも構いません。とにかく、スタメンで起用し続け、実戦経験を積むことが何より大事だと思います。巨人の外野ならチャンスもあるはずでしょう。

 

 もう1つ、興味深いニュースがあります。昨年、巨人で現役を引退したゼラス・ウィーラー、井納翔一、桜井俊貴の3人がスタッフとして働くそうです。特に注目はウィーラーです。役職名は「編成本部長付特別補佐兼打撃コーディネーター」。耳馴染みはありませんが、端的にいえば①一軍から三軍野手への技術アドバイス、②外国人選手への日本野球への適応アドバイス、③スカウティング業務が役割だそうです。2つ目の役割は非常に面白いんじゃないかなと思いますね。

 

 このコラム更新の後にはWBCの本メンバー発表、2月には各球団キャンプインと野球界の動きが一層激しくなっていきます。今年も僕の視点から見る球界を語っていきますのでみなさま、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良)を務め、無事"完走"を果たした。


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