広島カープ後援会の発会式は、あいにくの悪天となって延期を余儀なくされ、試合前に開催されることとなった。一方カープの後援会費は増加の一途をたどる。戦後、娯楽の少ない時代にファンの思いはカープに託されたのだ。石本秀一監督も資金集めの手を緩めることはなかった。今回のカープの考古学では、プロ野球史上初の、球団運営資金を市民県民にゆだねた広島カープ後援会をはじめ、その初代会長と後援会発会式についてお届けしよう。

 

競い合う後援会費

 カープの後援会費は、中国新聞を経由して集められたのは過去に述べてきた。カープの窮状は中国新聞によって伝えられた。それを救おうと立ち上がった県民市民による後援会組織は、職場から町内会など、さらには個人でお金を持参する人も現れた。連日活況を呈し、中国新聞には、「カープ支援金」のコラムが設けられ、歳入の一役を担った形となったのである。

 

 昭和26年7月13日現在のものとして、翌日の紙面にはこうある。

<六千四百二十円、廿日市カープ後援會(第一次)><五千七百二十円、中國電力出汐製作所(第三次)>などとある。このように、市町の単位や、職場の単位でまた、結成された時期によって、最初の月の後援会費として「第一次」、3カ月目の後援会費として「第三次」といった具合に、お金が集められたことを伝えた。この第一次、第二次という数字は後援会の結成時期によって異なるため、職場間、また自治体間でも、競い合うかのように記されていると感じられる。

 

 昭和26年の3月20日、後援会構想が掲げられてから3カ月あまりが過ぎようとしていた中で、紙面上で目をひく職場があった。

<九百二十円、廣島駅前電信局後援會(第七次)>

 発足から3カ月あまりの期間で、第七次まで集まるのはつじつまが合わない。これは推測の域にはなるが、昭和26年7月に納められた後援会費ということで、この年の1月までさかのぼって集金がなされ、それを新聞紙面上で、“俺たちは第七次まで、すでにやっているんだぞ”――と、アピールしたのだろう。このように“カープを救え”という思いが、周囲と競争するようにして集まり、拠金となったことが、うかがえる。

 

 こうした、小さなコラムだが、カープ球団への歳入が膨らんでいく。広島としては、復興へ向けた目覚ましい日々の象徴といっても過言ではない出来事だったろう。

 

 第七次の後援会費を納めた広島駅前電信局後援会の報道があった、同じ日の誌面には、こんな記事があった。

<米大リーグに荒巻を引き抜く>(「中国新聞」昭和26年7月14日)

前年のパ・リーグを優勝した毎日オリオンズのエース荒巻淳投手を、大リーグが引き抜こうというのである。

 

 時代は占領下であり、アメリカの思惑の中で、日本の国策が揺れ動く時代、食べていくものにも事欠いた時代である。体力で劣る日本人選手が、まだ、大リーグうんぬんの時期ではなかった。後に日本人初の大リーガーとして、昭和39年、アメリカに渡るのは村上雅則投手だが、これは13年後のことである。記事にはこうある。

<セントルイス・ブラウンスの会長ビル・ヴィーク氏は日本のプロ野球選手を米大リーグに引き抜こうと物色中であったが、このほどパ・リーグ毎日球団の荒巻淳投手を正式手続きを得たうえで買い取りたいと語った>(「中国新聞」昭和26年7月14日)

 

 当時の他の報道を見てみるとする。「読売新聞」(昭和26年8月18日)によると<荒巻投手へ正式招聘状>とあり、記事では<セントルイス・ブラウンスの会長ビル・ヴィーク氏はかねてパシッフィック・リーグ毎日オリオンズの荒巻淳投手をアメリカのプロ野球に招きたいともらしていたがこのほどアメリカで有名なプロモーター、サーパス・タイン氏を通じて福島毎日新聞球団代表に正式招へい状が届いた>とあり、やはり正式な動きがあったのだ。

 

 しかし、この移籍は成立しなかった。当時、「火の玉投手」と呼ばれる荒巻投手は、この年、前年の26勝に及ばないものの、10勝8敗、防御率2.42と二桁勝利をおさめる活躍をした。

 この時期、日本は9月に予定されたサンフランシスコ講和会議ヘ向けた動きが加速する。講和条約に向け、連合国との講話となるか、アメリカとの単独講和となるのかが揺れていた。例えばフィリピンにおいては、反日感情がはびこる中、国が講和の意向を示せば、示すほど、政府側への反発が生まれるという難しい状況にあった。かたや、朝鮮戦争の停戦を目指し、アメリカをはじめ、さまざまな国の介入がなされ、一歩前進すれば、二歩後退するという朝鮮半島情勢であった。

 

後援会会長の泣きっ面

 朝鮮半島情勢がわずかながら、平穏を取り戻すかに見えたこの時期。広島カープは後援会発会式を行うということになれば初代後援会会長を決めなければならなかった。

 後援会の発会式となる昭和26年7月29日の数日前(※)の早朝である。石本監督が訪ねたのは、広島商業時代の2年先輩で、鈴木化学工業(現・味日本)の専務、小川真澄であった。

 

 石本は狙いを定め、一度言い出したら聞かない性分である、特にカープ球団のことに対してはそうだ。その時のやりとりはこうだ。

<「実は、後援会長になっていただけたらと思いまして…」
「イヤ、それはダメだよ。私はそんな柄じゃないよ」

「でも、小川さんが一番適任者だと思ってお願いにあがったんですから…」

「でもね、私は仕事があるし、会長になったところで、私じゃとてもカープの力になれる働きはできませんよ」>(「読売新聞」カープ十年史『球』第61回)

 

 早朝から始まった押し問答は、昼を過ぎても、互いが譲らない。果てしなく続くかにみえたその時のこと。ここに救いの言葉が舞い降りる。

 工場長の波多野要蔵がやってきた。

<「仕事の方はわしらに任せてつかあさい」>(『カープ30年』中国新聞社)

 さらに波多野は続けた。

<「専務さん、石本さんもああいっておられるし、引き受けてあげてはどうですか」>(「読売新聞」カープ十年史『球』第61回)

 カープといえば県民市民の、焼け野原の暗闇の中に誕生した、希望のともし火といえる存在だった。そのカープを支える人を、さらに支えた人らもいた。この波多野の申し出により、小川はカープ初代の後援会長に就任することになる。

 

 ただ、小川が固辞するのには理由があった。実は前年に苦い経験があったからだ。四国から入団の4名の選手獲得にあたり、どうしても50万円がいるとせがまれた――。しかし、カープにはその金がない。そこで小川専務が50万円を自分名義で銀行から借りた。しかし、その金はというと。

<「その後、二十万円は返ったが、残りの三十万円はいっこうに返ってこない」>(「読売新聞」カープ十年史『球』第61回)

 この顛末としては、残りの30万円を株式にして小川に許してもらったというのだ。いわゆる領収書代わりに発行される株券であり、証券取引所で取引されることのない、いわゆる価値のないものであった。

 

 しかし、時がたち、この30万円のことが、『V1記念 広島東洋カープ球団史』(中国新聞社)にこう記されている。

<後援会長には、広島商業で(石本と)同窓の小川真澄氏になってもらった。苦しい時に個人でポンと三十万円も寄付してくれたこともある>

 小川の元に返すことができなかった30万円は、寄付行為として、カープ史に残されているのだ。これはカープにとっても、石本にとっても都合のいい“結末”となった。初期のカープには、こうした泣きをみた人が少なくない。

 

勢い余ったファンの行動

 そんなこんなでありながら、何とか後援会長も決まり、カープ後援会発会式の当日を迎えた。

 7月29日、広島総合球場での国鉄スワローズ戦。朝の8時の開門と同時に観客は次々と入り、試合2時間前の11時には満員状態に。スタンドには後援会支部の幟旗が、揺れている。各支部とも趣向をこらした旗で、我こそがカープを支えていると誇らし気である。

 

 ダブルヘッダー第1試合目の前に、選手らはマウンド側を中心に、ホームベース側に向かって並び、さらにホームベースを挟んで、一塁、三塁側に各後援会支部の支部長らが、ずらりと並んで神事が始まった。

 ところが、瀬戸内海にほど近い広島総合球場であり、凪のたつ広島の夏は暑かった。炎天下でかなりの時間待たされた選手や役員である。このままでは、選手らみんな倒れてしまいかねないと、この光景をみかねたファンらが、「はようせい」とはやし立てる始末で、会場はざわついた。

 

「ええ加減にやめーや」

 

<たまらなくなったか、低い内野スタンドを越してファンが四、五人バラバラとグラウンドに降り立った。そして必勝と大きく書かれた二メートル四方もあろうかという大ウチワをかつぐと選手たちの後ろに回り、エッサ、エッサとあおいで回った>(「読売新聞」カープ十年史『球』第62回)

 しかし、これはあくまでもパフォーマンスにしかならず、暑いことには変わりはなかった。

 

 広島カープにとっては晴れの舞台である。だが、おらが生活費をはたいて後援会費を納め、試合入場料を払い、酒樽に募金をしてまでカープに注ぎ込む魂は、いつのまにやら、大きく輩たちのはやし言葉に変わってしまうのだ。原爆により歴史の縦糸を切られた広島県民市民にとって、おらがカープに注ぎ込む思いには、周囲のことなどかまっていられないかのように、勢いあまった行動に転じてしまう。

 

 さらに、この日の夜、カープ史を汚してしまう、驚きの事件が発生するのである。夢にまでみた財政的な基盤を得て、飛躍の契機となるはずであったが、残念な事件によって、カープ首脳陣は再び考えさせられることとなる。

 次回、カープの考古学では、飛躍の契機となった盤石な経営母体を得た中で、選手間の驚きの事件について記す。選手生命が奪われてしまうほどの衝撃的事件とは……。乞うご期待。

 

【注釈】

※石本監督が小川真澄に会長を頼んだ日であるが、『カープ50年』では<7月中旬>とあり、『カープ30年』では<「明日発会式なんですよ」と小川に頼み込んだ>と発会式の前日に頼んだと記されている

 

【参考文献】

『広島スポーツ100年』金桝晴海(中国新聞社)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)

『カープ50年』(中国新聞社)、『VI記念 広島東洋カープ球団史』(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和26年7月14日)、「読売新聞」カープ十年史『球』第61、62回(昭和34年連載)、「読売新聞」(昭和26年8月18日)

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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