プロ野球が開幕し、対戦カードは二巡目に入っています。ソフトバンクは近藤健介を補強し、抜け目のない戦いを披露しています。阪神は岡田彰布監督のもと、1点を大切にする野球に徹しています。一方で、古巣の巨人がやはり心配です。原辰徳監督の采配を疑問視する声もありますが、監督、コーチ、選手の顔が生き生きとした表情をしていないことが気がかりです。

 

 ベンチの雰囲気はチームを好循環に持って行くためにも重要です。今の巨人にも気の利いたことが言える存在がいればなぁ、と思ってしまいます。

 

 私が巨人のコーチをしていた2002年。阪神との開幕2連戦に連敗。中日との1回戦目も敗れ3連敗を喫しました。中日との2戦目に勝利したものの、チームの空気はまだスカッと晴れる様子はなかった。それは内容が少し芳しくなかったから。2戦目の初回、1アウト満塁のチャンス、バッター・清原和博の当たりは浅いレフトフライでした。サードコーチャーの私は三塁ランナーに「ノーノーノー」と言ったのですが、ホームに突っ込んでしまいました。中日、レフトの井上一樹からストライク返球が来てしまいアウト。ビッグチャンスだったものの、ダブルプレーに終わりました。

 

 ベンチに戻ると原監督からは「康友、(三塁ランナー)止めたんでしょ?」と聞かれ「止めました」と。しかし、三塁ランナーには私の「ノーノーノー」が「ゴーゴーゴー」に聞こえたそうです。チャンスがありながら得点に繋げられず、チームの雰囲気は良くなかった。どうしようか、と考え、中日との3戦目前のミーティングで、私はこう言いました。

 

「昨日はサードコーチャー(私)の英語の発音が悪く、チームに迷惑をかけて申し訳ありませんでした。今後、犠牲フライでの得点チャンスの場面、ゴーサインは“ゴー”じゃなくて、こう言います」

 

 少し間をあけ、大きな声で――。

 

「行くでっ!」

 

「関西弁かいっ!」と清原、元木大介ら関西出身の選手がいたこともあり、ロッカーが盛り上がりました(笑)。なんとこのミーティング後の試合、延長戦で高橋由伸がホームランを打ち、2連勝で借金を返しました。試合後、原監督が私のところに来て「康友、今日のミーティング、すごくよかった」と褒めてくれました。

 

 投手に打撃の簡単な目標設定

 

 コーチにできることは限られています。その中で私は「選手への伝え方」に頭と気を使っていました。ゴーサインを関西弁に変更した同じ年。シーズン途中から当時ルーキーだった真田裕貴がピッチャーローテーションの一角を担うようになりました。

 

 ブルペン事情を考慮すれば勝ち投手の権利を得られる5回までは先発に投げ切ってほしい。それは当たり前ですが当時、プロ入り間もない新人の選手に「5回まで投げろよ」と言っても、精神的に追い詰めてしまうのでは? と思いました。しかしながら、何とか1試合の目標を定めて投げて欲しい……。そう思い、私は新人ピッチャーにはこう言いました。

 

「2打席立てるように」

 

 ピッチャーに打撃面での目標を設定しました。「打って塁に出ろ」とか「相手ピッチャーに球数を投げさせろ」とか具体的な結果は求めていません。打席に2回、ただ立てばいい。それだけ。

 

 それはなぜか。ピッチャーが早い回で炎上すると1度も打席に立つことなく交代させられます。1打席、2打席目とピッチャーに回ってくるということは“ナイスピッチング”をしている証左です。だいたいのパターンとしてピッチャーの2打席目は4回か5回あたり。5回で打席に立つということは“6回も投げる”ということです。本業の投げる方で「5回まで頑張って投げろ」とストレートに言うよりもピッチャーに「2打席立て」と伝えるとマイルドに聞こえて、変に悩まずに伸び伸び投げてくれるのかな、と考えました。真田は2002年途中からローテに入り、それでいて6勝もしてくれたのですから私も嬉しかったです。

 

 一軍のコーチは、どれだけ選手を気持ちよくプレーさせるか、これに尽きると思います。それを西武でコーチになりたての頃に実感しました。当時、西武には安部理という選手がいました。ピンチヒッターで起用され、ネクストバッターズサークルで肩に力を入れて、一生懸命、素振りをしているんです。安部はその打席で結果が出なかったら二軍に落とされかねない状況でした。私は三塁側のベンチから小走りで安部に駆け寄り、こう言いました。

 

「エビちゃん(安部の愛称、バックネームのABEのエービーから)! そんな必死にならんと。神様は見てるよ、よく練習してんだから」

 

 ベースコーチャーにつくと、バッターボックスに入った彼と目が合いました。エビちゃんは私を見てニッコリと笑ってくれたのです。数秒前まで鬼の形相だった彼は、フッとリラックスしたのでしょうか。なんとホームランを打ったのです。後日、一、三塁の場面でエビちゃんがピンチヒッターで出場しました。またもや力みながら素振りをしていたので駆け寄って「エビちゃん! 神様は見てんで!」と。

 

 そうしたら、ニコッと笑って今度は左中間への3ランです。この時、私はファーストコーチャーだったので、エビちゃんを本塁で迎え入れました。ホーム球団のファンの悲鳴、西武ファンの歓喜の声が入り混じったホームベース付近。ダイヤモンドを一周して還って来たエビちゃんと私の間には、特別な一瞬の時間が流れました。これは事前のやり取りを知るふたりにしか分かち合えないものでした。

 

 ここで私は確信しました。ピンチヒッターで1打席しか巡ってこない選手は相手のクセや情報を頭に叩き込んでいます。ここで打たないと二軍降格、という立場の選手なら頭の中は既にいっぱいいっぱい。そこに「低めのフォーク、気を付けろよ」とか「体、開くなよ」と言ったところでどんな効果を期待できるでしょうか。一軍の選手なんて、元々実力はあるわけです。気軽にバッターボックスに入った方が絶対的に力を発揮してくれるのは言うまでもありません。戦術的、技術的指導は大切ですが、メンタル面のケアや雰囲気を明るくする気の利いたセリフの効力は小さくないのだなと、この体験が教えてくれました。

 

 原監督は難しい顔で戦況を見ているし、コーチや選手の表情も今一つさえない。「今日はミーティングでどう言えば、雰囲気が明るくなるかなぁ」と考えながら球場に通った日々が懐かしいものです。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良)を務め、無事"完走"を果たした。


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