今月は悲しい知らせが飛び込んできました。西鉄ライオンズの黄金期を支え、指導者としても名伯楽で知られた中西太さんが11日、心不全のため亡くなりました。90歳でした。

 

 高松一高(香川)在籍時に3度の甲子園出場を果たし、「怪童」の異名をとりました。プロ生活で獲得したタイトルは本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回。身長174センチながら、弾丸ライナーでスタンドへ運ぶ姿が印象的でした。ショートライナーかと思われた打球がそのまま平和台球場のスタンドに入ったり、同球場で160メートル弾を放ったり、打撃に関する伝説はいくつかありました。

 

 伝説を残した打撃の指導

 

 中西さんは指導者としても素晴らしい方でした。小さな大打者として知られた若松勉さんを育てたことでも有名です。

 

 忘れもしません、僕が巨人で初めて1軍に上がった1980年。中西さんが阪神の監督をされていた時です。僕は相手の観察もするのですが中西さんは試合前、ティーバッティングで選手に指導をされていました。そこで驚いたのが、中西さんはティーのインパクトの瞬間をわざと見ないんです。最初、その光景を見た時には「この人、何してんだろう……」と思いました。しばらく様子をうかがっていると――。

 

「OK、今のはいいね!」「あ、今のはダメ。バットが被っちゃってる(ボールを上から叩いて凡打になりやすいオーバースピンがかかっている)」

 

 中西さんはこれらの違いを目をそらし、バットのスイング音やインパクト時の音で良し悪しを判断していたんです。あれだけの成績を残した人だと音でわかるんでしょうかね。僕がベンチスタートだった時、試合中もよく中西さんを観察していました。試合でさえも、敢えて目を切って耳を澄ます一幕も。ゲーム展開も音で判断できるとは、びっくりしたものです。ある時、中西さんがベンチから出て抗議をする場面に出くわしたことがあります。そこはすかさず「いや中西さん! 試合見てないじゃないですか!」とジョーク交じりで突っ込ませていただいた思い出があります。

 

 現役時代のご自身、そして中西さんが育てたバッターを見ていると「下半身と上半身をうまく連動」させているのがよくわかります。決して手だけで打たず、股間をキュッとしめて足を使い、腰の回転も使い、インパクト時に一気にパチーンとパワーと伝える。これらを徹底していたように感じます。ご冥福をお祈りします。

 

 あり得ないボーンヘッド

 

 今月は気になるプレーがありました。18日、バンテリンドームナゴヤで行われた中日対阪神戦です。中日1-4阪神と中日が3点を追う8回裏(中日の攻撃)。村松開人がレフト線へ弾き返し、フェアゾーンで跳ねた白球は、フェンス際へ。セカンドランナー・石川昂弥はサードベースを蹴ると勢いを緩め悠々とホームを踏みました。しかし、ファーストランナー・細川成也がサードを狙いましたが、タッチアウト。石川がホームを踏むよりもサードでのタッチアウトが先だったため、1点も奪えずチェンジとなりました。阪神のレフト、シェルドン・ノイジーの返球はたしかに見事でしたが、それにしてもホームを踏む前にスピードを緩めた石川のプレーは理解し難いものでした。

 

 あの場面で1点を追加できる、できないは勝負を大きく分けてしまう。さらに言及させてもらうと走塁コーチの指導も疑ってしまいます。仮にコーチ陣がきちんと指導していても、走っている本人にその気がないと、困りものです……。自分の目の前だけで行われていることが全てではないんです。自分の背中、見えていないところでもゲームは着々と動いています。石川にはそこの部分をもっと意識してもらいたい。阪神は絶好調な一方で、中日は不調――。その差が如実に出た場面といえるでしょう。レフトのノイジーは懸命に打球を追いかけ、小さな振りかぶりでナイスな返球。この姿からは“1点もやらない”という執念を感じました。1点に対する意識の差が見られました。

 

 さて、古巣のジャイアンツですが順位をじわりじわりと上げています。やはり、坂本勇人の復調が大きいでしょう。表情も開幕当初と全然違う(笑)。笑顔が見られ、覇気も感じます。彼の中で何かが吹っ切れたのでしょう。固定して起用されたことでやっとリズムを掴めました。坂本の頑張りに加え、サードで起用されている門脇誠が素晴らしいプレーを披露しています。13日の対広島戦では3つのファインプレーが飛び出しました。中田翔が戻ってくるとますます競争が激しくなりますが、これだけの好守をみせる選手は2軍には落とせないのではないでしょうか。

 

 今月の30日から交流戦がスタートします。シーズン序盤は低迷していたチームも交流戦で流れが変わり、上昇気流に乗ることも少なくありません。現在、低迷しているチームにとっては、流れを変えるきっかけになるのでは、と注目しています。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良)を務め、無事"完走"を果たした。


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