先月につづき、今月も球界には訃報が届きました。中日などで活躍した杉下茂さんが97歳、広島で活躍した北別府学さんが65歳で亡くなりました。

 

 優しかったお父さん

 

 杉下さんは通算215勝、最多勝2度、沢村賞を3度獲得し、「フォークの神様」の異名をとりました。およそ30歳も年上だったので、私は杉下さんのことを「お父さん」と呼んでだいぶ甘えさせてもらいました。私以外の人も「お父さん」と呼んでいましたよ。

 

 私が西武の守備・走塁コーチに就任した1年目。杉下さんは投手コーチでした。森祇晶監督のもと、ハワイキャンプでの出来事です。監督・コーチ陣はオフの日も決まって一緒に朝食をとりました。ハワイでのオフ、私や黒江透修さん(当時ヘッド兼打撃コーチ)、伊原春樹さん(当時守備・走塁コーチ)はもう朝からゴルフに行きたくて仕方なかった。

 

 ところが当時、森さんはゴルフにまだ興味がなく、ハワイでのオフはドライブをしながらショッピングとランチを楽しんでおられました。監督と目を合わせると「一緒に行こう、運転頼むわ」と言われかねない。

 

 早くゴルフに行きたい……。なんて思いながら朝ごはんを食べているとーー。

 

「じゃあ監督、買い物、行きましょうか」

 

 声の主はお父さん。そう、お父さんは"康友たち、めちゃくちゃゴルフ行きたそうだわ"と察して、助け舟を出してくれたのです。とても、温厚な方で誰に対しても優しい紳士的な方でした。

 

 北別府さんの分まで

 

 北別府さんの訃報も私にとってはショックでした。私の白血病が発覚したのが2017年夏。骨髄移植したのが18年3月。その約2年後に北別府さんが白血病に。白血病と一口に言っても様々あるようです。北別府さんは成人T細胞白血病。息子さんから骨髄移植を受け、野球解説に復帰するなど元気な姿を拝見していました。「やっぱり長いこと先発ローテーションを守り抜いた人だから、体も精神力も強いなぁ」と思っていました。

 

 北別府さんの現役時代は、説明不要なほど素晴らしい投手でした。通算213勝、最多勝2度、最優秀防御率1度、沢村賞には2度輝きました。コントロールが抜群で"精密機械"と言われたほど。右打者から見ると外のスライダー、内のシュート、真ん中低めのカーブで勝負するタイプでした。

 

 試合を担当する球審が「今日はペイ(北別府さんの愛称)かぁ。嫌だなぁ(苦笑)」と嘆くんです。それは、なぜか。真ん中なんて誰だってストライクとわかるでしょう? 北別府さんは本当にストライクゾーンの四隅、それも際(きわ)の際をついてくるから判定が難しいんだそうです。北別府さんの訃報に接し、改めてこの病気の怖さを感じました。勝手ながらで恐縮ですが、私は北別府さんの分まで生きて、球界に恩返しをしようと思います。おふたりのご冥福をお祈りいたします。

 

 日ハムの奇策

 

 今月で交流戦が終わりました。6月16日、中日対日本ハム戦ではトリックプレーが炸裂しました。4回表、日ハムの攻撃。スコアは1対1。ツーアウト、一、三塁。中日のピッチャーはサウスポーの小笠原慎之介。彼がサードランナー・万波中正からファーストランナー・上川畑大悟に目を移した瞬間、万波がホームへスタートを切る。コンマ何秒、わずかの差で上川畑も飛び出します。左腕の小笠原がファーストランナーを気にして牽制を投げました。もうこの間に万波はホーム生還。上川畑はセカンド上でアウトになり、チェンジ。日ハムが2対1と勝ち越しました。

 

 結果的に、この得点が決勝点となり日ハムが逃げ切りました。翌日のニュースなどでは「ホームスチール」と報じた媒体もありましたが、正式には「フォースボーク」というプレーです。相手が左ピッチャーでかつ、一、三塁の場面で稀に使われます。左ピッチャーから、強制的(フォース)にボークを誘う、ある種の奇策です。年間を通じてもあまり見ないプレーです。そのため、成功させた側は「よっしゃあ!」と盛り上がり、やられた側の精神的ダメージは大きいでしょう。

 

 日ハムの万波のスタート、その刹那、牽制を誘い込むようにあえて飛び出した上川畑たちによる阿吽の呼吸は見事でした。万波は「失敗したらベンチのせいだと思って思い切れた」と語ったようです。まさにその通り。タイミングを少しでも躊躇うと成功しません。選手にそう思わせた新庄剛志監督もお見事。去年からの積み上げが奏功しつつあるようです。

 

 切り替えが重要

 

 一方、フォースボークを決められた中日。4回というのが、また難しかったのでしょう。7、8、9回といった試合終盤なら最注意事項はサードランナーになります。ファーストランナーの動きに惑わされるな、と私なら指示します。結果的にこれが勝ち越し点になりましたが、仕掛けられたのはまだ4回。1点は失ったものの、アウトを取れてチェンジになったじゃないですか。最悪のケースはボークと判定され、アウトも取れずサードランナーは生還、ファーストランナーには進塁を許すことです。

 

 よく考えてみれば、相手は4回で試みてきたんです。私なら失点してベンチに帰ってきた選手たちを集め、こう伝えます。「向こうはまだ4回であんなこと(奇策のフォースボーク)してきたぞ? こんなモン、余裕ない証拠やんか。こっちはしっかり打ってやり返そうや!」

 

 中日の落ち度をあげるとすればフォースボークで1点を与えたことではなく、スパッと気持ちの切り替えができなかったことの方が大きいのでは? と私は考察します。

 

 そうそう、私がコーチを務める立教新座高校のエースも左ピッチャーなんです。思い切りがよい新庄監督率いる日ハムのおかげで、大変貴重な映像資料ができました。守備と走塁は表裏一体です。生徒たちには「こういうプレーがあるから、守備では気をつけろ」と伝えつつ、攻撃の走塁時もおさえるポイントは一緒。口頭による説明は10分もかからない。しかし、口頭説明だけではイメージしづらい選手もいるかと思います。だから、今回の映像があると大変ありがたい(笑)。全国の球児たちも、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良)を務め、無事"完走"を果たした。


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