☆再掲☆宮崎早織(JX-ENEOSサンフラワーズ/愛媛・聖カタリナ女子高校出身)最終回「憧れを追いかけ、東京五輪へ」
宮崎早織の所属するJX-ENEOSサンフラワーズはWリーグ(バスケットボール女子日本リーグ)で19回、全日本総合選手権大会で20回の優勝を誇る。いずれも最多記録という女子バスケ界屈指の名門チームだ。数多くの日本代表を輩出しており、現在もガード(G)の吉田亜沙美、センター(C)の間宮佑圭、センターフォワード(CF)の渡嘉敷来夢を軸に黄金期を築いている。宮崎が日本代表の主力とともにプレー、練習することで得られるものは大きい。中でも日本代表の司令塔も務める吉田は、同じGの宮崎にとって最高の“教材”なのである。
(2016年3月の原稿を再掲載しています。※表記は当時のもの)
追いかける吉田の背中
宮崎自身も「毎日が勉強になります」と口にする。すぐそばで吉田のプレーを見ているだけでなく、時にはコートで向かい合うこともある。
「マッチアップをする時は気が抜けない。5対5のゲーム形式の練習で、リュウ(吉田のコートネーム)さんはあまりジャンプシュートを打たないんです。それでも何をしてくるかわからないので間合いを詰められない」
迂闊にボールを奪いにいけば、その隙を突いてドリブルで抜かれる。ダブルチームを仕掛けてもかわされる。「ひょいって抜かれちゃうから悔しいです」と宮崎。その悔しさが彼女の成長への肥やしとなる。
JX-ENEOSに入ってからは、宮崎は主に司令塔役のポイントガード(PG)を任されている。聖カタリナ女子高校時代はシューターやスコアラーが務めることの多いシューティングガード(SG)。ゲームメイクは日々、学んでいる最中だ。佐藤清美ヘッドコーチ(HC)は「スピードやシュートの思い切り良さなど、個の力はすごくいいものを持っている。ただPGになってくると、まわりを使わないといけないんです。パスの入れ方にしても、ナンバーコールの仕方にしても去年からはやっていますが、今は勉強中ですね。幸い吉田という良い先生がいるので、見習いながら成長しているという段階だと思います。よく練習中や練習終わった後でも吉田に質問している姿を見かけますからね」と語る。宮崎は「わからないことがあったらすぐ聞きに行きます。試合前も試合の途中でも」と司令塔のイロハを先輩から貪欲に得ようとしている。
吉田はJX-ENEOSの心臓であり、日本代表においてもチームの核だ。その存在感は際立っている。それを間近で感じている宮崎は「他の選手とは全然違いますね。オーラがすごくあります。威圧感というか、変なことはできない」という。そのオーラとて自然に発するものではなく、吉田が積み上げてきたものが醸成させたとも言える。宮崎は吉田のすごさをこう語る。
「やはり一番すごいと感じるのは、全くサボらないことです。ウエイトにしても練習にしても、いつも全力でやっている。だから試合でもすごいプレーができるんだろうなと思いますね」
目で見て、肌で感じられる最高の“教材”である。
「1年目は緊張してばかりでした。とりあえずボールを離さないように、なくさないようと心掛けてやっていました。今シーズンはリュウさんも復帰してきていい見本がいるので、“こういう時はこうやった方がいいんだな”と正解が分かり、すごく勉強になるシーズンですね」
そう充実感を覗かせて振り返った2015-16シーズンは、数字の上では物足りなさが残った。フィールドゴールパーセンテージ(フリースロー以外のシュート成功率)は36.5%。前シーズンと比べれば、7%以上もアップしている。だがトップ選手であれば、50%を超える。宮崎自身は最低でも40%以上を求めていた。「去年あれだけ出させてもらったのに……。これではチームに貢献できていない」。そう言って、彼女は唇を噛んだ。
苦悩のルーキーイヤー
宮崎はルーキーイヤーの14-15シーズンでレギュラーシーズン30試合中29試合に出場した。これはG岡本彩也花、渡嘉敷に次ぐチーム3番目の数字である。平均アシストは3.24でリーグ9位。その点で見れば充実のシーズンかと思われたが、実は違った。
14年の2月、吉田が左膝前十字靭帯断裂の大ケガで長期離脱を余儀なくされており、PGはベテランの新原茜が務めていた。それでもプレシーズンに行った韓国遠征においても、宮崎の序列は決して上の方ではなかった。彼女は試合に5分ほどしか出ていないという。佐藤HCも「ゲームを戦うためのメンバーのひとりとは、その時は考えていなかった」と明かす。
控えPGと期待されたのは、宮崎と同じルーキーの山田愛だった。しかし、先の韓国遠征で山田もケガを負ってしまう。チームのPG不足は深刻だったため、宮崎にチャンスが巡って来たのだ。
慣れないポジションゆえに戸惑いは多かった。
「自分の中では試合に出させてもらって、すごくいい経験になりました。でもPGは求められることがすごく多いから、頭がこんがらがって、毎日というほど泣いていた。“なんでこんなに難しいこと言われないといけないんだろう”“自分にはできない”と、苦労というよりパニックの方が大きかったですね」
高校時代とのギャップは戦術面にもあった。「カタリナでは大きい子がいなかったので、あまりセットプレーがなかったんです。ドライブを仕掛けるのか、パスやランだった。JX-ENEOSはガードが指示をしてから攻撃を始めるチームなので、すごく難しかったです」。そこで バスケの難しさを思い知る。「やはりスピードだけ、パスランだけだったら、勝てない世界だなと実感しました」。練習でも実戦でもパスが通らない。対戦相手は大きく、コートは狭く感じた。いつしか思い切りの良さまで奪われつつあった。
だが、Wリーグデビューは予想外の早さでやって来た。14年10月31日、トヨタ自動車アンテロープスとの開幕戦だった。第3クォーター(Q)、残り3分39秒、38-51と13点ビハインドの場面。「リーグ戦の1試合。負けるにしても新人を使ってみたいという気持ちもあった」と、佐藤HCは思い切った勝負に出た。宮崎はガードフォワード(GF)の大沼美琴と代わって、コートに立った。
当時のことを本人はこう振り返る。
「あのタイミングで自分が呼ばれると思っていなかったんです。ただ先輩たちのことをずっと応援していて、いきなり『ユラ!』と呼ばれて、“えっ? やばい、自分だ”とビックリました」
突然の指名に驚いたものの、変に考える時間がなかったことも幸いしたのかもしれない。交代直後のスローインで裏に抜け出すと、ドライブでゴール下へ突っ込んだ。シュートは相手にブロックされたが、宮崎の持ち味であるスピードを生かしたプレーを発揮した。
その後も新原のパスからレイアップを決め、スリーポイントも沈めた。約4分間の出場で、このQ8得点。チームも49-51と2点差に迫った。
「何も考えていなかったので、パスをもらったらドライブ、シュートだけでした。だから入ってくれたんだと思います」
ほぼ無心でプレーした宮崎の活躍により、試合を持ち直したJX-ENEOSだったが、第4Qで再び引き離された。宮崎自身のシュートも決まらず、無得点。結局、56-65で敗れた。
勝利に結びつけられなかったものの、計10分間の出場で十分なインパクトを残した。
「先輩たちがナイスパスをくれたので、すごくいい状態でシュートが打てました。先輩たちや試合で使ってくれた清美さんにすごく感謝しています」と宮崎。一方の佐藤HCは「“持っているものはあるんだな”と感じましたね」とデビュー戦の出来に目を細める。以後も宮崎はコンスタントに起用され、レギュラーシーズン5戦目で初スタメンを果たす。そこから24戦連続でスターティングラインアップに名を連ねた。JX-ENEOSはレギュラーシーズン1位でプレーオフへ進出した。
「正直言うと、不安な部分の方が大きかったですね。どうしても1年目の選手をここまで使うのは僕もなかなか経験がなかった。ただゲーム的には競ったゲームが多かったんですが、勝ちを続けてくれていたので、上出来だったと言えるのではないでしょうか」と佐藤HCは胸の内を明かす。リーグ戦終盤に吉田が復帰したこともあり、宮崎のプレーオフでの出番は少なかった。JX-ENEOSはプレーオフセミファイナル、ファイナルを全勝で制す。Wリーグ7連覇、全日本総合と合わせて2年連続の2冠を達成した。
地元で響かせる「ユラ」コール
「自分は高校の時は1回も優勝したことがなかったので、1年目は初めての金メダルがすごくうれしかったです。この時は“優勝したんだ”という感じでしたが、2年目になるとチームの状況もわかってくるので、“優勝したい”に思いは変わりました」
精一杯走り抜けた1年目を終え、悲願のタイトルを獲得した。それを経験したことで宮崎には責任と自覚が芽生えつつあるのだろう。
2年目のシーズン、宮崎はスタメン出場はゼロだったが、ある時は流れを変えるスーパーサブとして、またある時は主力を休ませるためのバックアッパーとしてほぼ全試合でコートに立った。プレーオフファイナルでは、いつものスピードを生かしたプレーに加え、気迫のこもったプレーも見せていた。交代出場から流れを作るなど、チームのWリーグ8連覇に貢献した。
昨年秋、女子バスケ日本代表はFIBAアジア選手権を制したことで、リオデジャネイロ五輪への出場権を手に入れた。今月9日には最終候補メンバー18名が選出された。吉田、間宮、渡嘉敷らチームの先輩たちが名を連ねる中、宮崎は選ばれなかった。
「オリンピックよりもJOMO(JX-ENEOSの前身)に憧れていた」という宮崎だが、日の丸を背負いたい気持ちはある。4年後には自国開催の東京五輪も控えている。「周りにはすごく尊敬する先輩たちがいるので、そのおかげで日々、うまくなれています。東京オリンピックを目標に頑張りたいです」。普段の練習から代表クラスの選手たちと切磋琢磨している。きっとその道は東京へと通ずるはずだ。
チームでは吉田の控え。後継争いでも筆頭格にあると言っていいだろう。佐藤HCも宮崎には大きな期待を寄せる。「やはり吉田のように他の選手を生かせるPGになってほしいですね。自分のところにチャンスがあれば、スピードを生かして仕掛けていい。たぶんシュートを含め大好きだと思うんですよ。そのシュートも確率を上げてほしい。その上で吉田のようにゲームメイクなどができるようになってくれば、東京オリンピックも十分可能性のある子だと思います」
東京五輪のバスケットボール競技の会場はさいたまスーパーアリーナが予定されている。奇しくも宮崎の地元・埼玉県。満員のアリーナに響き渡る「ユラ」コールに背中を押され、疾風のドライブを仕掛ける。その想いは揺らがない。
(おわり)
<宮崎早織(みやざき・さおり)プロフィール>
1995年8月27日、埼玉県生まれ。小学3年でバスケットボールを始める。南古谷アクロス、与野東中を経て、愛媛県の聖カタリナ女子高に進学した。聖カタリナでは1年から試合に出場し、2年時には主力として全国高校総合体育大会(インターハイ)、全国高等学校選抜優勝大会(ウィンターカップ)での準優勝に貢献した。3年時にはインターハイとウィンターカップで3位に入った。高校卒業後はJX-ENEOSサンフラワーズに入団。1年目から出場機会に恵まれWリーグ、全日本総合選手権大会の2冠を経験した。身長166センチ。背番号は32。
(文・写真/杉浦泰介)