先週の金曜日に65歳で帰らぬ人となった元広島のエース北別府学さんは「技巧派」や「軟投派」と呼ばれることを嫌っていた。「その言い方には逃げたりかわしたりしているイメージがある」。こちらにそんなつもりは毛頭ないのだが、鹿児島出身の“薩摩隼人”には、逃げている、かわしていると見られることが許せなかったようだ。

 

 宮崎・都城農高時代は「本格派」として名を馳せた。広島で“代打の切り札”として鳴らした担当スカウトの村上(旧姓・宮川)孝雄さん(故人)は、「高校に入った頃は間違いなく150キロ出ていた」と語っていた。にもかかわらず、ある日を境に球速への情熱を失っていく。

 

 1973年のセンバツで大会記録となる60奪三振をマークした江川卓さん擁する作新学院高(栃木)が招待試合で宮崎にやってきたのは、その直後だ。人生初の江川体験を、北別府さんは自著で、こう述べている。<投げたと思ったらミットに入っていた>(『カープ魂』光文社)。続けて<高校一年の時に初めて江川氏の投球を見た瞬間、「怪物だ」と直感した。マスコミも江川氏のことを「怪物」と報じていたが、その表現を使ったのは私が最初だと思っている>

 

 球速では「怪物」にかなわない、と観念した北別府さんは、以降、手首の強化に励むようになる。シュートやカーブ、スライダーなどの変化球を磨くためだ。といっても、近代的な器具など、そうそうない時代だ。「風呂に入るとヒザで手首を固定し、水圧を利用して左右に振る」。体がくたくたになるまで、これをやり続けた。それも往復40キロの自転車通学の後で。手首の強化に加え、山道通学による下半身の鍛錬がプロでの飛躍の土台となった。

 

 ホームベースの幅43センチ。さらにはバッターボックスの白線のラインからホームベースの端までの「ボール1個半の幅」も利用した。内角をシュートやインスラでえぐり、仕上げは外のスライダー。あるいは、その逆。投球に緩急をつけるためドロンとしたカーブも織り交ぜた。女房役の達川光男さんは、彼をこう評した。「ボールの縫い目ひとつで勝負するピッチャー」

 

 北別府さんのプロ入りから遅れること3年、江川さんが巨人に入団した。江川さんの調子を測るバロメーターが三振なら、北別府さんは内野ゴロ。剛と柔の競演は、80年代のプロ野球の華だった。

 

 さて「精密機械」と形容された北別府さんにとって、審判のストライク、ボールの判定は死活問題だった。「不満がある時は?」と問うと「判定が変わるまで同じ所に投げます」。「それでも変わらなかったら?」。含み笑いを浮かべて北別府さんは言った。「もう1球行きますかね」。「それで四球を出してしまったら?」。「マウンドを3歩降りて無言で訴えます」。理詰めの「精密機械」は情熱と信念の人でもあった。合掌

 

<この原稿は23年6月21日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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