第771回 杉下茂、「消える魔球」の正体

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 視界から「消える」のだから「魔球」以外の何物でもない。さる6月12日、97歳で大往生を遂げた杉下茂さん(中日など)は、日本で初めて「魔球」を投げた投手として知られる。

 

 

<この原稿は2023年7月17日号『週刊大衆』に掲載されたものです>

 

 杉下さんが“伝家の宝刀”フォークボールをマスターしたのは明治大時代。当時、野球部の技術顧問をしていた天知俊一(後の中日監督)に「スギ、フォークボールというボールがあるけど、知っているか?」と聞かれたのが、きっかけだった。

 

 本人によると、大学時代に投じたのは、1球だけ。立教大の山崎弘というバッターに試したところ、振りかけて止めたバットに当たり内野安打になってしまった。「これは縁起が悪い」と思い、封印したと語っていた。

 

 杉下さんのプロ野球人生のハイライトは中日を初のリーグ優勝、日本一に導いた1954年のシーズンだ。32勝12敗、防御率1.39という好成績で、3度目の沢村賞、2度目の最多勝、初の最優秀防御率投手、同じく初のMVPなどタイトルを総なめにした。

 

 実は杉下さん、自らが開発したフォークボールが好きではなかった。打てっこないボールを投げて抑えたところでおもしろくないと思っていた、というのだ。何とも贅沢な話である。

 

 だが、このシーズンだけは、なぜかフォークボールを多投した。旧制帝京商業学校(現・帝京大高)、明大で世話になった天知が監督に復帰したからである。

 

「来年は絶対優勝させますから、監督をお願いします。こちらからそう頼んだ手前、天知さんの言うことを聞くしかなかった」

 

 当時の中日の最大のライバルは51年から53年まで3年連続日本一を達成していた巨人。全盛期を過ぎたとはいえ、川上哲治の存在感は圧倒的だった。

 

「天知さんに“川上には最初からフォークを放れ!”と言われた。僕は“嫌です”と拒否したら、“これは監督命令だ!”と。だから54年は巨人戦だけで11勝しているはずです」

 

 もし中日に杉下なかりせば、初優勝はずっと後になっていただろう。

 

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