西本恵「カープの考古学」第65回<カープ二年目の総括編その3/驚きの戦力補強――軟式野球部の“県庁マン”>
カープの創設2年目となる昭和26年、カープは後援会という財政基盤が整った。しかし、それはすぐに他球団と同レベルで、戦力強化ができるかといえば、決してそうではない。球団の運営を、なんとか賄っていけるのではないかというレベルに過ぎなかった。
こうした状況下で、カープ初代監督・石本秀一は、シーズンが終わるまで、さまざまな手を打ち続けて、戦力強化につながることは何でも行った。
夏の広島のにぎわい
食生活が、やっと戦前並みに追いついたと言われはじめた頃である。この年の夏は暑かった。とりわけ、瀬戸内は特有のべた凪で、広島の夏は暑いとされた。それに、雨が降らないのだから、お百姓さんをはじめ、県民市民らも困り果てていた。
一方、人々の夏の楽しみに、盆踊りが盛大に行われるようになっていた。夜中を通して踊り明かそうという、幸せな日々がやってきたのだ。
<十八日、廿日市町小学校校庭で万余の人出のうちに踊絵巻を繰り広げた。トコトン、トンと打つ太鼓拍子に十六夜の丸い月が浮かれ頭をのぞかすころは早くも夜半の零時を過ぎ、踊りはいつ果てるともなく続いて行った>(「中国新聞」昭和26年8月22日)
のど自慢コンクールでは、自慢の歌声を披露し合い、1位を競い合った。
<盛会だった 廿日市町のど自慢>(「中国新聞」昭和26年8月21日)
優勝者の名前が新聞で伝えられるほどであり、本格的なイベントとなった。
さらには、驚きなのは真夏とあってか、女性の水着コンクールという催しもあった。
<海水着美人コンクール等>(「中国新聞」昭和26年8月7日)
現在でいう広島市佐伯区の海岸沿いの楽々園地区が、海水浴客を取り戻そうと躍起になっていたのだ。
<広島電鉄では宮島線沿線の行楽地『楽々園』が最近とみに不人気なので>(同前)、<名誉回復に努めている>(同前)というのである。
あの手、この手で海水浴客を呼び込もうと、海岸でのダンスパーティや、素人のど自慢大会、海水着美人コンクール開催したのだ。
終戦から、おおよそ6年が経ち、県民市民は楽しみを求め始めて行動範囲が広がっていた。海へ行き、一晩中ダンスを踊り、歌を披露して、海水着美人のコンクールとくれば、さぞ、にぎわったことだろう。
独自の戦力補強
時期を同じくして、中国新聞に掲載された記事はカープファンの心を躍らせたであろう。
<渡辺投手カープへ>(「中国新聞」昭和26年8月9日)とある。一般的にプロ野球選手の獲得時期といえば、オフシーズンが補強期間。球団関係者は鵜の目鷹の目で、アマチュア野球選手たちの獲得に奔走する。とりわけ8月とあらば、甲子園の球児らに熱い視線が注がれた。
しかしながら、資金力に乏しいカープは、甲子園のヒーローのような他球団の注目度が高い選手は契約金が高騰し、獲得は難しかったろう。周囲の喧騒に惑わされることなく、石本は、シーズン真っ只中にあっても、野球関係者の風聞に耳を傾けた。可能性がありそうだと判断した選手を連れてきては入団テストを行っている。もちろん、そこで石本自身の御眼鏡に適った選手は入団させた。
この渡辺投手こと渡辺信義とはいったい何者なのか。当時の記事にはこうある。
<渡辺選手は広島県双三郡三良坂町出身で日彰館中学卒業後広島県庁に勤め軟式野球で活躍していたもので>(同前)
県庁マンであり、軟式野球選手というのである。
いかにいっても、県庁に勤める公務員ではないか――。こんな声が聞こえてきそうである。<サイドスローからのシュートとカーブに威力を持ち、その将来を期待されている>(同前)という。
とはいえ、軟式野球の選手を入団させるのか、とこんな批判があったかもしれない。
しかしながら、石本には、周囲の声を納得させるだけの不思議な力があった。当初は無名選手でも、カープ入団後、すぐに活躍した長谷川良平を、テストを受けさせ、独自の手腕でエースにまで育てあげた実績もあったからだ。
また、渡辺は投球フォームも、長谷川と同様、オーバースローではなく、下手から投げ込むスタイルである。では、この渡辺信義の入団経緯を、彼のご子息・渡邉博康(昭和33年生まれ、現在、広島市安佐北区在住)のインタビューから辿るとする。
石本が渡辺信義のテストを行ったのは、広陵高校のグラウンドというのが、これまでの定説となっている。当時の広陵高校は、現在の広島市南区皆実町にあり、スーパー「イオンみゆき」店が建っている。
アンダースローへの転向
なぜ広陵のグラウンドなのか。博康氏の見解は、「練習で使っていたのではないでしょうか」ということだ。当時、県庁は、現在の広島大学医学部霞キャンパスにあった。その県庁から広陵高校まで、わずか2キロとあって、仕事終わりに練習をしていたとしても不思議ではない。
石本によるテストは、「わずか5分程度投げただけと聞きました」と博康氏。その時、石本から発せられた言葉に、驚いた。
「明日から、来れるか――」
これは信義自身も、驚いたが、すぐに入団が決まったのだ。では、契約書や契約金はどうなったのか――。
「まったくなかったらしいです。契約金もなく、契約書もなかったと本人(信義)は言っていました」(博康氏)
わずか、数分の投球を見ただけで、決断をした石本。実は信義の前評判は高かった。
<軟式野球では剛速球投手だった>(『カープ50年-夢を追って―』中国新聞社)
博康氏の証言では、「県庁で軟式をやっていたときは、オーバースローでした」という。さらに当時、バッテリーを組んでいたとされるのが、広岡富夫氏だった。富夫氏は、西武、ヤクルトで監督をし、プロ野球において、管理野球を確立した広岡達朗氏の実の兄である。富夫氏も、昭和32年にカープに入団している人物だ。
さておき、信義であるが、後のインタビュー記事には<「オレより速いのはおるかいな、とさえ思っていたが、フリー打撃でガンガンに打たれてねぇ。空振りする者なんか一人もいなかった」>(「あの鯉人たちは今」第22回1997年8月取材)と語っている。
これにより、上手投げから、アンダースローへの転向を余儀なくされたのだ。石本の手法としては、上手がダメならば、サイドから、もしくはアンダーから投げればいいという実にフレキシブルな考え方を持っていた。さらに、石本は、真上から投げ下ろすタイプの投手にも、少しばかり、リリースするポイントを下げさせ、スリークオーター気味のフォームに改造させる指導をしているのも特徴である。
実にうまく、本人の体を見極めてから、フォームを変えさせている。この指導の裏付けとしては、背中の骨格を見ていたとされる。背中のある2点を凝視し、その2カ所を結び、その延長線上に適切なリリースポイントを見つけていくのだ。こうした石本の技術は、投手本人と話しながらも、背中の2カ所のことは語らずに、自然な会話のやりとりの中から、伝えるのが特徴である。
十字架投法による魔球
話を元に戻そう。信義は打たれたショックからか、研鑚をつみ、自分の投球フォームと向き合った。<先輩投手の写真一枚をお手本に独自のフォームを身に付けた>(『カープ50年-夢を追って―』(中国新聞社)
輝きの舞台はことの他早かった。ここで身に付けた独自の投球術であるが、定説では、<球が上下左右に微妙に変化するところから名づけられた十字架球>(同前)と魔球についてもあげられている。
この十字架球を博康氏はこう解説する。
「球でもあるでしょうが、私が聞いたのは十字架投法というものです。投げるときに、両腕を広げて、体の軸が、ちょうど十字架のようになるでしょう」
博康氏の説を、近年の投手にあてはめ、さらに推察を交えて考えてみると、ある1人の投手が思い浮かんだ。
東京ヤクルト、北海道日本ハム、福岡ソフトバンクなどで活躍した秋吉亮投手のフォームだ。グラブを持つ左腕と、ボールをリリースする右手が体の軸を中心として、左右にゆれるように見えてしまうことから“でんでん太鼓”(※)のごとく表現されている。
これにならい、信義の十字架投法を推察してみる。確証はないが、秋吉投手が投げる際、わずか一瞬ではあるが、体の縦軸と、左右の腕が十字架のごとく見える。十字架投法を分かり易く伝えるために、秋吉投手の“でんでん太鼓投法”に例えさせてもらった。
こうしたフォーム改造の結果が、花開くのは、入団から約1年後の昭和27年の8月のことである。この年は、長谷川良平が、名古屋軍からの引き抜きに遭い(結果はカープ残留)、キャンプでのトレーニングを行わなかったことから、不調の波にのまれてしまった。そのためカープは苦戦した。この時期に、1カ月で6勝をあげて、エースばりの活躍をするのが信義である。国鉄の金田正一と投げ合い、堂々の勝利を収めた。これらは後の編で詳述する。
信義のエピソードは、他にもあった。県庁の勤務時代には、耕地課に所属し、農林事務所に勤務した。専門は、土木工事における測量である。戦後の復興の流れの中で、忙しく働き、そして、確かな技術が身に付いていた。どこに転職しようが、食いっぱぐれることはなかっただろう。いつでも測量の仕事に戻ればいいとばかり、そんな安心感があってか、日頃の言動や素行にあっても、「豪快さがありました」とは康博氏夫人の史子氏の談である。カープは昭和29年にフィリピン遠征を行うが、その際、現地の工事現場で、測量を指導したという逸話もあるほど、測量技術には自信を持っていた。これも後のフィリピン遠征の編で紹介する。
また、驚きの補強を行った石本の思いの裏に何があったのか、博康氏に聞いた。
「県庁もカープをバックアップしていた」「もし、選手が一人でも入団したら、宣伝にもなる」
出資金の金額は広島県が筆頭者である上に、選手を送り出すことで、県庁の面目も保てる。当然ながら、県庁職員からの応援を仰げる。試合日には球場に足を運んでもらい、観客増にもつながるというわけだ。
カープは複合的な効果を狙った戦力補強を行い、2年目のシーズンを終えていく。石本は、この時期、経営を立て直しただけではなかった。その陰には、虎視眈々と戦力強化に乗り出し、チームを成長させている。石本の思考の一つに、平時にこそ、全てを注ぎ込んでいくというものだ。
さあ、カープは、次はどんな手を打ちながら、球団運営を行っていくのか、次回の考古学でお伝えする。2年目のカープにご期待あれ。
【注記】
文中、渡辺信義の表記は、カープの登録名で記したが、正式には、渡邉博康氏によると、平成23年から渡邉を正式名字としたという。
【※】
でんでん太鼓の表記について「web Sportiva」より引用
【参考文献】
「中国新聞」(昭和26年8月7日、9日、21日、22日)
『カープ50年-夢を追って―』(中国新聞社)
「あの鯉人たちは今」第22回(1997年8月取材)※日刊スポーツなにわWEBより
「web Sportiva」(2016年7月15日配信)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)