前田真宏の家族は全員、大の巨人ファン。両親はもちろん、今は亡き祖父母も夕食時にはプロ野球のテレビ中継を観るのを日課としていた。母方の祖父などは、巨人が負けるとふさぎ込んでしまうほど熱烈なファンだったという。

 前田は小学4年になると、地元にあるスポーツ少年団(以下、スポ少)のソフトボールチームに入った。家庭環境を考えれば、彼が野球を始めるのは自然の流れであり、実際、野球に興味はあった。だが、前田は同じくスポ少にあったサッカーチームとどちらに入るか、迷っていた。

 前田が小学4年と言えば、日本で初めてのプロサッカーリーグ、Jリーグが開幕した翌年である。当時は、どの試合もチケットがなかなか手に入らないほどの盛況ぶりだった。“空前のサッカーブーム”は前田の地元にも巻き起こっていた。それまで勢力を張っていた野球人気が、みるみるうちに下がり、地元のスポ少でも約9割の子供たちがサッカーを選ぶほどだった。

「結局、僕はソフトボールを選びました。両親が野球が大好きだったので、喜んでくれるだろうな、と思って。僕らの学年でソフトボールに入ったのは、たったの4人。全員で9人いたかいないかくらいでしたね。しかも、ほとんどがキャッチボールもできない子ばかりでした」

 長年、監督としてソフトボールチームを率いていた菊池弘三は、前田の印象をこう語る。
「体のバランスが優れた子でした。下からボールを放らせたら、腰まわりが柔らかく、腕がしなっていたので、“こりゃ、ピッチャーやらせても故障せずに伸びるだろう”と思いましたよ」

 前田自身もまた、漠然とピッチャーへの憧れを持っていた。巨人ファンだったにもかかわらず、当時、前田が一番好きだった選手は近鉄時代の野茂英雄。よくトルネード投法を真似ながら、「将来は野茂のようなピッチャーになりたい」と語っていたという。
 バッティングセンスも光っていた前田はすぐに「エースで4番」の座につき、小学4年ながらチームの大黒柱を担った。

 前田の野球センスは兄の浩史をも驚かせた。
「弟が小学6年の時、“兄ちゃん、野茂のフォーク投げるけん、見てて”と言うんです。どうせ、落ちないだろうと思っていたら、目の前でスッと落ちたんですよ。あの時は、さすがにビックリしましたね。すごく器用な子で、何でもすぐにできてしまうんです」

 ソフトボールチームは、徐々に人数が増え、前田が小学5年になる頃には試合ができるほどになった。とはいえ、はじめは試合どころのレベルではなかった。ボールをキャッチするだけでも一苦労し、バットにはかすりもしなかった。勝敗よりも、アウト一つ取ることに一生懸命だった。

 だが、前田の学年には運動能力に長けた子が数人いた。そのため、練習を重ねていくうちにメキメキと上達し、前田が小学6年の時には西宇和郡大会、南予大会で優勝するまでになった。さらに約100チームが出場した愛媛県大会ではベスト8にまで上り詰めた。サッカー人気に押され、低迷していたソフトボールチームの久しぶりの快挙に、地元は喜びに沸いた。
 そして郡大会から全試合、一人で投げ抜いた前田は、地元の期待の星として注目されるようになり、リトルリーグからの誘いも受けた。しかし、地元で強くなりたいと、リトルリーグには入らず、地元の三瓶中学の軟式野球部に入った。

 前田は当然、中学でもすぐにレギュラーを獲れると考えていた。だが、入部早々、監督に「オマエは確かにすごい選手かもしれんけど、ダメだ」と言われた。前田の実力を見込んでいたが故、あえて厳しさを求めたのかもしれなかった。しかし、当時の前田にとっては“イジメ”としか思えなかった。

 救いだったのは、先輩たちが前田の力を認めてくれていたことだった。落ち込む前田に、「大丈夫、いずれはオマエの力を監督もわかってくれるよ」と言ってくれた。
 父親もまた、元気のない息子を励ました。
「心配せんでえぇ。一生懸命やっていたら、必ず後から結果がついてくるから。目先のことでクヨクヨするより、将来活躍できるように、自分を信じて頑張れ」
 前田が腐らずに続けられたのは、彼らの支えがあったからに他ならない。
 結局、前田はその年、一度もベンチ入りさえもさせてもらえなかった。

 転機は突然、訪れた。2年の夏、前田は珍しく風邪でダウンし、学校を欠席した。翌日、野球部の友人から、前日の練習で10キロほどの山をランニングしたことを聞いた前田は遅れを取り戻そうと、一人山を走りに行った。この日を境に、監督の態度がガラリと変わったのだ。

「それから、すぐにレギュラーに抜擢されました。後に監督には“あの時、オマエの意識が変わったんだ”と言われました。やっと、自分の努力が実を結び、監督の信頼を勝ち取ることができたと思いました」

 前田が再び「エースで4番」になると、チームも徐々に強くなっていった。中学生活最後の大会となった中学3年の全国中学校総合体育大会愛媛県大会では、学校史上初のベスト4進出を果たした。

 前田はこの大会でピッチャーとしての成長を感じたという。
地域予選の2試合に完封し、圧倒的な力を見せつけてチームを優勝へと導いた前田は、県大会でも1、2回戦を完封で勝ち抜き、ベスト8を決めた。準々決勝の相手は、優勝候補の筆頭に挙げられていたチームだった。

 前日2試合を投げ切った前田は、両足がつってしまって立つことができないほどボロボロだった。「明日は投げられないかもしれない」。そう覚悟した。
 だが、翌朝になると、なんとか投げられる状態にまで体は回復していた。それでも体は重く、疲労は残っていた。

 試合前、監督からは「なんとか5回まで頼む」と告げられた。前田自身もそれくらいが限界だろうと思っていた。
 ところが、試合が始まってみると、前田のピッチングは冴えに冴え渡った。優勝候補を相手に、5回まで無失点に抑えたのだ。試合は、犠牲フライでなんとか1点をもぎ取った三瓶中が、1−0でリードしていた。
 5回を投げ切り、ベンチに戻ると監督から「ご苦労さん」と言われた。だが、前田は投げたいという気持ちを抑えることができなかった。

「それまでは一度も自分から“投げさせてください”と言ったことがなかったんです。“自分から言っておきながら、打たれたら格好悪いな”ってそんなことを考えてしまって。でも、その時は優勝候補を抑えているのに、ここで交代するなんて嫌だと思ったんです。このマウンドは誰にも譲れない、と。それで、“次も自分をいかせてください”と願い出ました。そしたら監督も、“その言葉を待っとった。よし、いけ!”と言ってくれたんです」

 結果、前田は最後まで投げ切り、三瓶中が1−0で逃げ切った。6回以降、体の疲労は全く感じられなかった。ただ“勝ちたい”、それだけだった。
 前田が真のエースとしての一歩を踏み出した瞬間だった。

前田真宏(まえだ・まさひろ)プロフィール
1984年6月13日、愛媛県西予市(旧三瓶町)出身。小学4年からソフトボールを始め、エースで4番として活躍。中学では軟式野球部に所属し、全国中学校総合体育大会愛媛県大会ではエースとしてチームをベスト4進出に導いた。県立三瓶高校卒業後、徳山大学に進学。2年時にはレギュラーを獲得するも、中退して四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツに入団。2007年より北信越BCリーグ・新潟アルビレックスBCに所属。176センチ、70キロ。右投右打。










(斎藤寿子)
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