カープ創設から2年目のシーズンとなった昭和26年は、世界的にも大きな転換点でさまざまな出来事が起こっていた。日本が国際社会に復帰したのは、サンフランシスコ講和会議により、平和条約が締結された昭和26年9月8日。大戦最中、かつては枢軸国とされた日本であるが、和解と信頼の寛大な講和が実現し、民主的な独立国家として歩み始めていくのだ。

 

休戦会議は開かれるのか

 第二次世界大戦下では、大東亜共栄圏の独立を掲げ、アジアはおろか南方戦線でも快進撃を続け、太平洋を席巻するかのごとく、帝国化した。ところが形勢が逆転し、劣勢に立たされても、「ほしがりません、勝つまでは」と国民が挙国一致で戦った。こうした日々を過ぎ去り、大敗したことで、アジアの小国となった日本に幸福が訪れようというのである。この昭和26年は、大戦を経験した日本にとっても、世界にとっても大きな1年であったろう。

 

 ただし、すべてのアジアの国が幸せであったのかといえば、当然ながら、そうはならないのである。日本海を隔てた朝鮮半島では、北と南に分かれ、戦火が飛び交っていた。

 

 昭和26年4月に、「老兵は去るのみ」と言葉少なに日本を去った男、GHQ連合国軍総司令部、司令長官ダグラス・マッカーサー元帥。その後任となったマシュー・リッジウェイはマッカーサー同様に、朝鮮半島情勢に目を光らせ、いち早く休戦に持ち込みたいと、動きを早めていた。彼の手腕は、いかがなものか――。国民的英雄マッカーサーの存在は大きく、周囲からの圧力を感じながらも、実績を積み重ねていきたいという思いは、少なからずあったはずだ。

 

 この時期、アメリカからは休戦へ向けた使者として、オマー・ブラッドレー米統合参謀本部議長が、来日しており、朝鮮半島の前線視察を行ったのである。これまでの休戦会議の場所は、開城(ケーソン)で行われる予定だったことは、過去の考古学でも述べてきたが、この開城開催に、意義を申し立てたのはアメリカだった。

<休戦会談は、双方が平等の権利をもつ場所で再開さるべき(※原文ママ)で、開城(ケーソン)はその条件にあてはまらない>(「中国新聞」昭和26年10月3日)

 

 休戦交渉には、リッジウェイとブラッドレーの両巨塔が、あの手この手でもって、あらゆる戦略を練っていた。

 休戦協定の話し合いの場所を変えたい――という国連軍の主張に対し、変えるのならば、いったいどこで行うのか。国連軍の思いは、かつて事件も起こった開城では都合が悪いと、松賢里(ソンヒョンニ)へ移すことであった。

<リッジウェイ總司令官は、休戦交渉再開にあたり、中立侵犯事件をひきおこしたケーソン(開城)を交渉地として不適當とし、その北東部にあるソンヒョンニ(松賢里)を新交渉地とする提案をした>(『現代用語の基礎知識』(自由国民社)

 

 こうした国連軍の申し出に対し、共産党軍である北朝鮮からの回答は、平壌(ピョンヤン)放送を使って行われたが、アメリカ、リッジウェイの提案を批判する内容でもって放送された。

<休戦会場の場所を、松賢里(ソンヒョンニ)に移そうというリッジウェイ将軍の提案は会談の決裂を狙ったものである>(「中国新聞」昭和26年10月4日)

 

 共産党軍は、“会場を変えることは許さない”とばかり、会議の決裂であるという表現でこれを拒否したのだ。ではいったい、停戦協定の場所はどこになるのか――と着地点が見出せないまま、暗礁に乗り上げた。

 

最後まで諦めない

 朝鮮半島で戦火が飛び交う中、対岸にある日本は、やっと主権を回復し、平和な日々を迎え、プロ野球を楽しめる毎日となったのだ。休戦協定の場所で揺れ動く朝鮮半島をしり目に、国内でカープは7位(最下位)が確定した。しかしながら、いついかなる時も、例え消化試合であろうと、カープは手を抜いた試合などもってのほか、全身全霊を込めて立ち向かうのである。まさに、その思いにふさわしい試合があったのだ。

 

 10月2日、最下位争いをしてきた大洋との一戦は、甲子園で行われた。大洋は、この年勝ち頭で兄弟プロ選手の弟・林直明を先発に立て、カープは杉浦竜太郎で迎えうった。

 しかし、あっさり初回に1点を入れられたカープは、打線にあっても林を打てず、苦戦を強いられた。

 大洋は6回表、木村保久や移籍入団の杉浦清らが二塁打を重ねて、追加点を入れた。大洋優位な流れで試合は進み、9回を迎えたのである。

 

 このまま、完封負けか――。それがおおよその結末であろうと思われた。しかし、カープナインは諦めてはいなかったのだ。9回、1アウトの後、山口政信がヒットで出塁すると、岩本章もヒットで続き、同点のランナーを出した。俄然沸き上がるカープベンチである。この後の打者の場面で、大洋の二塁手のエラーがあって進塁した後、長持栄吉がセンター前に弾き返し、2対2の同点とした。土壇場で追いつき、なんと延長戦に持ち込んだのだ。

 

 こうなるとカープの勢いが増す。10回裏、1番の白石敏男(勝巳)が二塁打を放ち、出塁した。イケイケムードの中、2番の辻井弘がライト前にヒットを放ち、二塁から白石がホームに還り、3対”とし、サヨナラゲームとした。

 大洋の勝ち頭である林を、終盤のチャンスで一気に畳みかけたカープの戦いぶりは、決して最下位をひた走るチームとは思えなかったろう。接戦を制したカープにとって、来シーズンにつながる一戦となったのである。

 

 こうしたゲームの勢いは、当然ながら余波となってカープを包んだ。中1日空いた10月4日、大阪球場に場所を移し、行われた大洋との2戦目も驚きの結末となった。

 

 大洋の先発は、若手で伸び盛りの荻原隆で、カープ打線を5回まで完全に抑えた。一方のカープ先発は、老巧の笠松実を立てた。1回と、3回に1点ずつを献上したが、なんとか6回までを2失点に抑えたのが良かった。6回裏の攻撃では、前試合でヒーローとなった辻井の二塁打をきっかけに、山口、岩本が長打を重ね、2対2の同点とした。

 ここで、必ずや勝機があると見たか、カープは7回からのマウンドは、なんとエース長谷川良平を送ったのだ。競ったら強い長谷川が、小気味の良いピッチングで大洋打線を完全に抑えた。この後、大洋投手陣も負けじと、エース高野裕良をつぎ込み、一歩も譲らぬ投手戦となった。

 

石本の呼び掛け

 あと一本が出ないまま、延長も、はや12回裏までやってきた。カープは高木茂がヒットで出塁すると、この回で決めたいとばかり、打線がうまくつながり、エース高野を2アウトながら、満塁と攻め立てた。

 ここでカープは、高野が投じたボールを、前試合から当たっている岩本がジャストミート。ショート方向に打球が飛んだ瞬間、歓声が沸き上がる。ショート強襲のヒットとなり、三塁からランナーがホームイン。3対2となり、2試合連続でサヨナラ勝ちを収めたのだ。

 

 カープ強し――。試合会場は、大阪であったが、広島ファンにとっては、そんな気持ちになったであろう。戦力が乏しいチームではあったが、諦めない試合運びはこの頃からであった。

 

 こうした諦めない姿勢はというと、指揮官である石本秀一の言葉にもよく表れているのだ。今シーズンが終ろうとしていた頃のことだ。この年、石本は中国新聞の誌面に、自らペンを執り、カープの現状を、正確に、さらに実直に伝えているのだ。

 

 初期のプロ野球オープン戦は、秋にも行われていたことは、プロ野球を長年楽しんできたシニアのファンは知っていよう。さらに石本はオープン戦のみならず、紅白戦を地元で開催することで、試合収入がほとんどないとされる、オフシーズンにも興行収入をあげようと試みている。9月27日の中国新聞でもって、石本は県民市民にこう呼び掛けている、

<オープン試合は現在決まっているのは十四日に対大洋戦、阪神(交渉中)戦を広島で行うことと、十五日から二十日までカープの紅白試合を広島県下各地でやりたいと思っている>

 

 チーム成績は最下位であっても、カープがつぶれてしまってはいけないとばかり、経営再建に向けて抜かりはなかった。さらに石本の呼び掛けは続くのである。

<もし、御希望市町村があればカープ事務所まで御申込をこう>(同前)

 

 監督自らが市町村に地元中国新聞でもって呼びかけ、紅白戦の開催を促しているのだ。カープが紅白戦をやるとなったら、花輪から、果物カゴ、さらには、多数の寄付金も寄せられ、その地域は大賑わいとなる。この思いを知っていてか、石本は実直無比な言葉でもって、県民市民に呼び掛ける。カープの興業を絶やすことはない。石本の「いつ、いかなる時でも」カープの経営を成り立たせていくという、その情熱を燃やし続けた。

 

 さあ、2年目のシーズンもいよいよ幕を閉じる。次回はカープ昭和26年の最終戦をお届けする。初期のカープにはナイター球場がないこともあり、意外な結末となるのだが、2年目の総集編ともいえる試合となるのである。乞うご期待。

 

【参考文献】

(『現代用語の基礎知識』長谷川國雄(自由国民社)

「中国新聞」昭和26年9月27日、10月3日、4日、5日


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


◎バックナンバーはこちらから