ヘディングはサッカー特有の技術ではない。プロ野球にもある。

 

 この出来事は1981年8月26日、後楽園球場での巨人対中日戦で起きた。中日2対0で迎えた7回裏2死二塁、山本功児の放ったショート後方への打球を中日のショート宇野勝が捕球体勢に入りながら頭に当て、大きくそらしてしまったのだ。完封を狙っていた星野仙一の怒るまいことか。グラブを叩きつけるや、拾わずにベンチに戻った。世に言う“宇野ヘディング事件”である。

 

 このように野球にもヘディングがあるくらいだから、サッカーと同じルーツを持つラグビーにあっても不思議ではない。フランスW杯D組の日本対イングランド戦。SO松田力也のPGで12対13と1点差に迫り、じわりと金星への期待が高まった後半16分に珍事は発生した。

 

 敵陣深い位置でのイングランドのパスワークが乱れ、PRウィル・スチュアートが捕球し損なったボールが、PRジョー・マーラーの前頭部を直撃した。前に落ちたボールを後方にいたFLコートニー・ローズが拾い、インゴールに置いた。世にも珍しいヘディング・アシストだ。レフェリーに向かって自らの頭を指差したローズはトライを確信していたのだろう。

 

 審判団が映像判定で確認した結果、スチュアートがこぼしたボールは後方だったと判定され、お咎めなし。腕や手に当たっての前方への落球ならノックオンの反則だが、ヘディングはこれに該当しない。かくしてローズのトライは認められ、コンバージョンも決まり、スコアは12対20に。その後、さらに点差は拡大し、ボーナスポイントまで献上しての完敗。SH流大は「ノックオンだと決めつけて面食らった。スイッチオフした」と悔やんだ。

 

 勝てばジョークもさまになる。「計画通りだ。ヘディングの練習をしていた」とはマーラー。キャップ数84のベテランの存在は、そのモヒカン頭とともに、日本人の記憶に深く刻まれたに違いない。

 

 このプレーを巡っては、多くのOB、識者が「レフェリーが笛を吹くまでプレーを止めるべきではない」「セルフジャッジは厳禁」などと指摘しているが、それに付け加えることはない。想定外の出来事に備えてこその勝者であり強者だが、同時に、言うは易く行うは難し、でもある。

 

 厳しい局面に身を置いた時、人は確証バイアスに陥りやすい。ボールを落とした、ノックオンに違いない。相手も、ほとんどの選手が足を止めているではないか……。心のどこかで、良かった、助かったという安堵の気持ちがあったはずだ。そこを責めるのは、少々酷という気もする。むしろ気配を消すように走り、そっとポストの真下にボールを届けたローズの巧技を褒めるべきなのだろう。

 

 イングランド戦で得た教訓は、流の言葉を援用すれば、W杯においてスイッチをオフにする時間は1秒たりともないということだ。それがデスゾーンでの掟だとしたら、過酷にも程がある。

 

<この原稿は23年9月20日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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