セ・パ両リーグともにクライマックスシリーズ(CS)を終えました。日本シリーズの対戦カードは大方の予想通り、オリックス対阪神。今回はシリーズの展望と、私の“日本シリーズの勝敗を左右した体験談”を語ります。

 

 それでは、私の球論にお付き合いください。

 

 「打のMVPは木浪」の真意

 

 私の予想は、4勝3敗で阪神です。日替わり打線のオリックスより、選手各々、やることがはっきりしている固定打線の阪神が有利かなと思います。日替わり打線と固定打線のメリット・デメリットは当コラムの前号で述べています。ぜひ、ご一読ください。

 

 7戦までもつれると予想したのは、両チームともピッチャーのレベルが高いから。他の10球団が羨む投手ばかりです。

 

 日本一予想をした阪神の岡田彰布監督。CSファイナルステージで広島をスイープした際のインタビューには強かさを感じました。インタビュアーに「監督の思うMVPは?」と水を向けられ「打は、やっぱり木浪(聖也)ですかね」と。たしかに、木浪は第2戦にサヨナラヒットを放つなど目立っていましたが、MVPに選んだのはわかりやすい活躍だけではないはず。

 

 これはペナントレースの時からですが、木浪が塁に出ると阪神ベンチの雰囲気がやたらと明るくなっていました。これを見越し、“日本シリーズでも頼むわ”とメッセージを込めた8番バッター・木浪の選出だったのではないでしょうか。

 

 今季、阪神の打線がつながったのは、8番・木浪が肝です。木浪が単打でもフォアボールでも粘って出塁してくれれば、9番・ピッチャーが送りバントさえ成功すればもうスコアリングポジションです。1番バッター・近本光司の打点が多い(54打点、阪神の中では4番目)のは下位打線にも関わらず、しっかり出塁してくれる木浪(出塁率3割2分)がいるから。その木浪を称え、彼個人、そしてチームを上昇気流に押し上げようとする岡田監督の気配りはさすがです。

 

 日本シリーズの初戦は10月28日、京セラドームです。個人的に初戦の1回表と裏の攻防に注目しています。1回表に阪神の近本、中野が塁に出てかき回すのか、否か。裏にはオリックスの日替わり打線が阪神に襲い掛かるのか。

 

 文字にならないファインプレー

 

 これは、私が巨人の守備走塁コーチを務めていた時の体験談です。2002年、巨人対西武の日本シリーズ。初戦は東京ドームでした。1回表、先発・上原浩治は、西武の1番・松井稼頭央に初球をセンター前に弾き返され、ノーアウト1塁の場面。送りバントか、稼頭央の盗塁か……。どう出てくるのかと、戦況を見つめていました。2番・小関竜也は送りバント。

 

 しかし、打球はキャッチャー阿部慎之助の目の前で、捕球しやすい高さでバウンドしました。これを素手で捕った慎之助は、一瞬の判断でセカンドへ送球。稼頭央は間一髪でアウト。西武の送りバントは失敗に終わりました。実はこの瞬間、既に私は日本一を確信しました。もちろん、慎之助の好判断、好送球があってのプレーですが、この送りバントを防いだのにはちょっとした伏線がありました。

 

 当時の西武は内野安打狙いの俊足バッターが多く、叩き付けるような打ち方をする選手が多数いました。バウンドが高く上がれば、それだけ内野安打が増える。地面が硬いとそれだけバウンドが高くなり、セーフになる確率があがる――。

 

 私は日本シリーズ開幕前日、東京ドーム・グラウンドキーパーの主任に、こうお願いしました。

「すみません。整備する時、ホームベースの前あたりをレーキ(トンボ)で柔らかくしておいてください」

 

 初戦は清水隆行、清原和博のホームランで4対1と勝利を収めました。試合後、コーチ室にグラウンドキーパーの主任が「康友さん、やったね!」と言いに来てくれました。主任もホームベースの前を柔らかく整備した意味、1回表の現象の理由を察していました。主任と勝利の喜びを分かち合ったことを鮮明に覚えています。コーチ冥利に尽きる瞬間でした。

 

 NPBの公式ベースボール・レコード・ブックには、こう記してあります。

▶テーブル詳細

<1回表>小関バント失敗、一走・松井二封。

 

 ここには文字にならないグラウンドキーパーのファインプレーが隠されています。今年の日本シリーズも、こんな裏エピソードが後々に出てきたらなぁ、なんて思います。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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