プロ野球の世界には「格」が存在する。これを無視した采配を振るうと、人間関係に亀裂が走るだけでなく、組織全体の空気も悪くなる。

 

 

<この原稿は2023年12月15日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

 

 2年連続Bクラスの責任を取り、今季限りで監督の座を退いた巨人・原辰徳には痛恨の記憶がある。

 

 選手としては晩年を迎えた1994年9月7日、東京ドームでの横浜戦で事件は起きた。0対0の7回1死の場面で、原に打順が巡ってきた。

 

 あろうことか監督の長嶋茂雄は代打に息子の一茂を送ったのだ。この時のショックを、原は自著『選手たちを動かした勇気の手紙』(幻冬舎)で、こう明かしている。

 

<打撃の状態は悪く、代打を告げられるのは仕方ない。しかし、左打者ならともかく、同じ右打者の一茂だった。代打を告げられた瞬間は、頭が真っ白になった。バットを持ってベンチに引き上げると、これまで感じたことがない感情が込み上げてきた。

「ここまでやんのかよ」

 長嶋監督はプロ野球界にとって、神様のような存在だろう。長嶋監督から見れば、自分の存在なんて虫けらのようなものだ。>

 

 原もショックなら、一茂もショックだったのではないか。槙原寛己がMCを務めるユーチューブ番組で「オレも参ったよ。頼むから出さないでくれって思ったもん」と当時の本音を吐露している。

 

 現役最後のシーズンとなった翌95年にも同様のことがあった。5月30日のヤクルト戦。4対6の9回1死満塁の場面で、後輩の吉村禎章を代打に送られた。

 

 事前に吉村は「原さんの代打だけは勘弁してください」と長嶋に願い出ていたようだが、聞き入れられなかった。

 

 今年、阪神を18年ぶりのリーグ優勝、38年ぶり2度目の日本一に導いた岡田彰布にも苦い過去がある。

 

 1992年4月25日の中日戦。2対1と阪神1点リードの5回、1死満塁のチャンスで監督の中村勝広は、左の亀山努を代打に送ったのだ。

 

 いくら岡田が不振に喘いでいたとはいえ、亀山は前年まで2でくすぶっていた選手である。

 

「亀山って誰かと思ったよ」

 

 というくらいだから、岡田が負った“心の傷”は察して余りある。試合後、名古屋の宿舎で荒れた、という逸話も残っている。

 

 だが考えてみれば、勝負の世界に生きる人間で、屈辱に無縁だった者などいない。問われるのは、その先の姿勢なのだ。屈辱の記憶が後々、采配面で役立ったのは想像に難くない。

 


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