カープが2年目のシーズンを終えた昭和26年12月、球団関係者も選手も、そしてファンも、資金難からくる存続の危機から脱したと感じていた。

 プロ野球は、シーズン中のみならず、オフのストーブリーグの戦いにも勝たねば戦力が整わず、翌年のシーズンにおいてけぼりを食ってしまう。当然、職業野球の時代からプロ野球を知る石本秀一監督も、戦力補強の重要性を感じていた。

 

 昭和26年オフは、巨人の捕手・藤原鉄之助の獲得に乗り出していた。藤原は昭和17年、名古屋軍(後の中日)に入団し、正捕手となり、昭和23年に移籍した急映(後の東急、東映)でもレギュラー捕手となった。多くの球団でレギュラーを張ってきた経験はあるものの、昭和24年に移籍した巨人では出番が減ったこともあってか、本人が移籍を希望してのカープ入団であったとされる。当時の藤原入団はこう報じられた。

<プロ野球界屈指の好捕手であり、非力なカープにとって大いにプラスになるものとみられ、来シーズンの活躍が期待される>(「中国新聞」昭和26年12月27日)

 

 年の瀬に、来シーズンの飛躍を願うカープファンらには、心強い報道となったであろう。資金立てが難しいカープの戦力補強は、峠を越えた選手または知られていない高卒ルーキーなどであった。だが藤原はこの年、まだ27歳。年齢的にも期待がかかった。

 

 年の瀬の報道には、そのシーズンのカープを振り返る記事が多く見られた。ユニークなトピックとして、4月7日の阪神戦を解説しているものがあった。4月7日といえば、連盟から“カープはずし”ともいえる日程によりカープだけが遅れて開幕した日である。この苦境に勝利で応えた時の、リーグ順位に触れている。

<七日、広島総合球場では、広島カープが阪神を迎えて公式リーグ初の一戦を行い、杉浦の好投に快勝し>(「中国新聞」昭和26年12月19日)

 さらに記事はこう続いた。

<たとえ一日とはいえ勝率十割で首位に立ったことも語り草の一つとなろう>(同前)

 

 他チームは幾試合かこなした後での、カープの開幕とあって、初戦を勝ったことで、1勝0敗で勝率10割となり、首位となったのだ。

 草創期のカープ報道には、なにがなんでも“カープ強し”と伝えたく、瞬間的な1位であったとしても「カープ首位」と報じた記者魂が感じられる。

 

爆弾声明の裏側

 しかし、カープの草創期は、苦難の連続で、いつ球団がつぶれていてもおかしくはなかった――。それでも後援会を結成し、資金難を乗り越えた。なんとか他球団に追いつこうと、ありとあらゆる策を巡らし、戦力強化につながることは何でもやった。そんな球団創設2年目のオフに事は起こった。

 

 昭和26年12月25日、エース長谷川良平から爆弾声明が出された。

<「統一契約書第三十条を広島カープが履行せず、私は自由選手となったので、意中の球団へいく」>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月25日)

 

 カープ創設1年目に15勝をあげ、2年目には17勝をあげ、一躍エースに躍り出た男が、自由契約になったので意中の球団へ行く――というのだから、カープ関係者のみならず、野球界を驚かせた。

 このことは、前回の考古学に記したが、昭和26年のオフから導入された統一契約書の条項によるものであったとされた。

 

 しかし、なぜこのようなことが、突然行われたのか。球界を揺るがす長谷川の声明だが、単に“統一契約書の遅れ”のみが原因ではなかったのだ。他説を記す。

 長谷川は、カープと契約する際に、契約金を一括で支払われなかった旨を主張している。

<「当初契約金は三回に支払ったから統一契約違反」>(「中国新聞」昭和26年12月28日)と、過去の長谷川の契約金の支払いが3回に分けての分割であったことを指摘しているのだ。当時のカープの契約金と言えば、支度金程度の寸志がほとんどだが、長谷川にはきちんとした額が支払われた。例え割賦式であれ、支払われた選手はよい方とされたが、長谷川にとっては、これが事の発端だという。

 

 さらに、長谷川の要求は、些細なものであったが、こう続いた。

<「旅費千二百余円も未払いだから、私はカープ球団を退団する旨、松島会長(※セ・リーグ)に書面をもって申出てきた」>(「中国新聞」昭和26年12月28日)

 これは給与の遅配欠配が10日以上続いた場合、自由契約選手になれるという規定を盾にとってのことだ。この旅費の件は、重箱の隅をつついた要求で、セ・リーグ連盟としては、取るに足らないこととして寄せ付けなかった。

 

 契約金は、すでに支払われたもの。旅費1200円についても、金銭には正確さを求める長谷川であるが、退団の決定打と重要視されるほどのこととは考えられなかった。

 しかしながら、長谷川は退団への大きな要素であるかのように主張したのだ。

 

金田と給料を同額に

 こうした事態に陥ることを未然に防ぐために、長谷川の爆弾声明が出される2週間以上前、シーズン中のカープの東京遠征時の宿舎朝陽館において話し合いが持たれたことは前回にも触れた。当時、エース街道へと上りつめる長谷川は、なかなか人となじまず、誰とでも付き合うわけではなかった。例えば酒の席に呼ばれ、酒を勧められても飲まなかったほどだ。

 ほとんどのプロ選手らが豪快、いや豪傑とまで言われた時代である。

<当時は、豪傑揃いで、体のコンディションを気遣って酒を飲まない、というような選手は皆無だった>(『カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡』駒沢悟監修、松永郁子著・宝島社)

 有名なプロレスラーが酒を勧めようが、長谷川は固辞したという。

<「飲まんいうたら飲まん」>(同前)

 

 意固地なふるまいは次第に、付き合いの幅を自然と小さくしていった。しかし、こうした付き合いを断る長谷川にあっても、国鉄の金田正一とは、懇意に付き合ったとされる。

 金田の1年目は8勝であったが、2年目は22勝をあげた。2年間で30勝の金田と32勝の長谷川。互いに弱小球団を支えるエースとあって、分かり合えるものがあったのだろう。長谷川は、金田と同レベルの給与を求めたとされる。事前の交渉が行われた12月9日、長谷川は石本にその思いを打ち明けたという。

<「国鉄金田と同額にするということで、金田の給与を調べることになった」>(「中国新聞」広島カープ十年史 昭和35年1月25日)

 

 2つ長谷川が多く勝っているのに、金田の給料よりも少ないのは受け入れられまい。プロとしては球団が違えども、同レベルで評価してほしいと思うのは当然だろう。

 また、長谷川の実家は雑貨屋を営み、戦時下では塩や米などの配給所も兼ねていた。こうした環境下で家業を手伝うことも多く、細かなお金のやり取りをしていたことから、金銭感覚はしっかりしていたという。

 

 この給料に関する申し出は、石本の計らいで、解決に向かう。しかしながら、エース長谷川引き抜き事件は、泥沼化していくのだ。長谷川は地元、名古屋に帰っており、久々の軟式野球に興じたりして過ごしていたが、そこでの発言が思わぬ形で広がっていくのだ。

 

 それは、「カープから統一契約書が届いていない」というものである。この話が耳に入ったのは小野稔という名古屋軍のスカウトを担当する人物であった。ならば、長谷川は自由契約選手になるはずだと、獲得に動き出したのだ。

 長谷川は、自由契約選手か――。名古屋軍への移籍か――。これらの動きが新聞誌面を通じて広がる。名古屋軍は長谷川をかくまい、あの手、この手を打ちはじめたのだ。

 

 さあ、困ったのはカープである。弱冠20歳の青年・長谷川を取り囲み、さまざまな魔の手が襲い掛かった。次回のカープの考古学では、これらの定説の中に、新しい説として、名古屋軍から、さらに事前の動きがあったという説を交えて、話を進めるとする。乞うご期待。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年12月19、27、28日)、「カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡」駒沢悟監修・松永郁子著(宝島社)、「中国新聞」広島カープ十年史 昭和35年1月25日)

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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