メリークリスマス! みなさん、いかがお過ごしでしょうか。今日が終われば街は一気に年末年始モードに突入しますね。今月は、びっくりニュースが入ってきたり、国内のストーブリーグも徐々に動きが出てきました。私のスコアラー&編成時代の話をしようとお思います。

 

 大谷に続き山本もドジャース!

 

写真:左から筆者、王貞治さん、定岡正二さん、篠塚和典さん。写真提供:鈴木康友

 オリックスからポスティング制度でメジャーリーグ移籍を目指していた山本由伸の移籍先がドジャースに決定しました。来季は大谷翔平とチームメイトになります。山本が抑え、大谷のホームランでドジャースが勝つ! なんて展開になったら日本のファンは大喜びです。

 

 デーブ・ロバーツ監督は大谷の右ひじの回復次第では、外野起用も視野に入れているようです。私は賛成しかねます。外野の人材がいないならまだしも、戦力はいるでしょう。大谷は来季のみはDHで固定し、しっかりひじを治すべきでしょう。

 

 山本はメジャーでも十分勝ち星を積み重ねると思います。5つくらいの球種、全てが決め球として使える稀有なピッチャーです。落ちるボールはもちろん海の向こうでも通用しそうですが、あの緩いカーブで打者をきりきり舞いにする姿も見たいものです。

 

 ドジャースといえば、かつてはベロビーチでキャンプを張っていました。私も1981年(巨人時代)と1988年(中日時代)と2回、ベロビーチに行きました。81年は私の4年目、第1次藤田元司監督就任1年目でした。この時は王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチのトロイカ体制でした。牧野さんは「ドジャース戦法」と言われる緻密な野球を日本に輸入したコーチです。バントシフトも牧野さんが日本に持ち込みました。81年はバントシフトなどの確認をもう1度やろうと、ベロビーチへ行ったものです。

 

 当時は私が21歳、篠塚和典さんが23歳、東海大学から入団した原辰徳さんが22歳。この3人が洗濯当番でした。ユニホームなど大きな洗濯物はランドリーにまとめてぼんと出せば済むのですが、アンダーシャツやソックスは私たち3人が先輩の分も洗っていました。朝に内野手がノックを受ける練習場に出ると、ドジャースのコーチ陣が「グッドモーニング! ベロビーチ!!」と迎え入れてくれたのがとても懐かしいものです。

 

 中日時代は星野仙一さんが監督を務めていました。星野さんが落合博満さんに「向こうのレギュラー投手の球を打たせてもらってこい」と指示をしました。向こうのピッチャーはキャンプから割とフルスロットルです。一方、日本の調整方法はキャンプインして徐々に調子を上げていきます。その齟齬があったからでしょうか。あの落合さんがゲージから1球も打球がでませんでした。向こうのピッチャーはキャンプの序盤から平気で90マイルくらい(140キロくらい)は放ってきます。やっぱり、メジャーのピッチャーはスピードが違うなぁと思ったものです。

 

 心に決めたこととは

 

 日本のストーブリーグも徐々に動きを見せています。山川穂高が西武からソフトバンクに移籍したり、中田翔が巨人から中日に移ったり。巨人やヤクルトは課題のピッチャーの補強に余念がありませんね。

 

 実は私、2001年は西武でスコアラー(前期)と編成(後期)を経験しました。スコアラーは大変でした。スコアラーチームは対戦カードで言えば「先先乗りチーム(2カード前)」、「先乗りチーム(1カード前)」「本体1軍帯同チーム」とあります。先先乗りは主に投手のチェック、先乗りは主に対戦相手の野手の調子を見ます。先先乗りは時間に余裕が多少はありますが、先乗りチームはこの3連戦が終わればもう、西武との対決です。毎日、試合をチェックし、ビデオも撮り、当時は手書きの用紙に書き込み、試合が終われば資料をまとめ、球団に提出。23時にホテルに戻り、仕事が完了するのは翌朝3時や4時です。1軍が勝つために、相手選手の様々なクセを盗んだものです。

 

 2001年後期は編成を経験しました。巨人やロッテの2軍も見て回りましたが、メインはウエスタンリーグを回っていました。どこの球団は投手に余剰人員が出ているか。自分の球団の余剰人員も考え、うまいトレードに導けるか。そういったことを頭に入れて視察をしました。私が編成だった頃の編成部長は片平晋作さん。片平さんはネット裏からだけでなく、様々な角度から選手を観察していました。たとえば、目当ての選手が左バッターなら、ネット裏から三塁側に移動してさらに観察していました。これらの動きは私にとっても大変、勉強になりました。

 

 そして私は2002年、ジャイアンツのコーチとして現場に復帰しました。裏方を経験した私はあることを心に決めました。

 

「編成やスコアラーがとってきた情報は、絶対に無駄にせず生かす」

 

 目の前の1試合、1球のために多くの人間が動いています。そんなことを感じさせてくれた、2001年の経験でした。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


◎バックナンバーはこちらから