昨年、映画字幕翻訳者の戸田奈津子さんから話を聞く機会があった。「字幕は一画面に最大2行。それも1秒に出せる字数は3~4字。制約がある中、どうやって観客の皆様に映像を楽しんでもらうか。私たちは原文を直訳しているわけではない。ところが最近は日本語の感性を生かした字幕に訳すと、ネット上で“誤訳”として炎上してしまうことがある。私は全くそういう声を気にしませんけどね」。毅然と語る姿に、第一人者の矜持が見てとれた。

 

 有名な逸話がある。1946年に日本でも公開された名作『カサブランカ』。主人公のハンフリー・ボガートがヒロインのイングリッド・バーグマンに「Here's looking at you,kid」と語りかけるシーンがある。直訳すれば「君を見ているよ」となるのだが、日本語訳は「君の瞳に乾杯」だ。「瞳」なんて言葉はどこにもない。されど、高瀬鎮夫のこの訳が名訳だと言われるのは、日本人の心性にマッチにしていたからだろう。

 

 それを受けて戸田さんは語った。「最近は本来の日本語の美しさが乱れ、カタカナ言葉ばかりが飛びかっている。例えばサスティナブルという言葉。単純に“長続きする”でいいじゃないですか。パッと聞いて意味がわからない言葉は使わない方がいいと思います」

 

 耳の痛い話である。取材資料として、テーブルに以前、私が書いた「メジャーリーグのナラティブ」というコラムのコピーを置いていたのだが、思わず「ナラティブ」の部分を指で隠してしまった。

 

 巨匠フランシス・コッポラに通訳者としての仕事ぶりが認められ、字幕翻訳の世界に自ら望んで足を踏み入れた戸田さんは、映画と並ぶ米国文化であるメジャーリーグについても造詣が深い。野球映画では、ともにケビン・コスナーが主役を演じた『フィールド・オブ・ドリームス』と『さよならゲーム』を高く評価していた。リアルの世界に目を転ずると、大谷翔平に夢中なのだという。

 

「プレーだけじゃなく、大谷さんの所作が素晴らしいのよ」。そう前置きして、戸田さんはユニークな持論を展開した。「例えばダグアウト。多くの選手が紙コップやひまわりのタネなどをピャッと捨てている中、大谷さんひとりが後で掃除していた。それにね、彼はグラウンドでも絶対に白線を踏まないんです。ちゃんとまたいでいる。昔、私たち日本人は畳のへりを踏んではいけないと教わった。それを大谷さんは(米国でも)実践している。あの礼儀正しさを見ていると、日本人として本当にうれしく思いますね」

 

 昨年12月、プロスポーツ史上最高額でドジャース入りしたことにより、好むと好まざるとに関わらず、今後は日米のみならず世界が大谷の一挙一動に目を凝らし始める。それは彼の立ち居振る舞いが世界のアスリートのモラルスタンダード(道徳的基準)になることをも意味する。これほど誇らしい話はない。

 

<この原稿は24年1月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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