おめでとうございます、と軽々しく口にするのが憚られるような年明けになってしまった。被害にあわれた方、平穏な日常を取り戻すべく奮闘している方々に思いを馳せつつ、今年の筆を始めたい。

 

 まずは元日に行われたタイとの親善試合について。前半の出来は、控えめに言っても最低だった。

 

 選手の側からすれば、アジア杯へ向けてのアピール以外、モチベーションを持ちにくい状況だったこと、核となるユニット不在のまま臨んだことなど、難しい面は多々あったかもしれない。ただ、そうした点を差し引いたとしても、満員の観衆を前にしてあの試合内容は失格である。

 

 わたしが失望したのは、前半のピッチに立ったほとんどの選手から、「俺が決めてやる」といった気概、殺気のようなものが感じられなかったことにある。手を替え品を替えて相手を崩そうとしていた伊東を除くと、リスクよりは安全(という名の責任回避)を選びたがる日本サッカーの宿痾を、たっぷり45分間見せつけられた気分だった。

 

 後半、堂安たちが入ったことで流れがガラッと変わったことから、海外組の逞しさ、国内組の物足りなさを指摘する声もあった。一面事実ではあるものの、欧州でプレーする日本人選手のほとんどは、日本で育ち、Jリーグでプロとなっている。つまり、海外組と呼ばれる選手の逞しさは、後天的に身につけたものだということになる

 

 では、なぜ海外組は逞しく見えるのか。国内組よりも明らかに相手の急所を狙おうとする意図が見えるのか。

 

 20世紀ならばいざ知らず、いまやイングランドだろうがインドネシアだろうが、プロの選手たちがやっている練習内容に大差はない。もちろん、質や強度は違う。だが、いまや調べる気になれば、昨日グアルディオラがどんな練習をやったかというところまで明らかになる時代である。練習の内容、方法にもはや秘密はない。

 

 では、同じような練習をし、出自もほぼ同じくしていながら、なぜ海外でプレーする選手とJリーガーでは明らかな違いが出てしまうのか。

 

 ファンの違いではないか、とわたしは思う。

 

 熱狂的でありながら、女性や子供も安心して試合を楽しむことができるJリーグの環境は世界に誇りうる特別なもの。ただ、消極的なプレーに対して寛容すぎるところが、Jリーガーから殺気、あるいは急所を衝くという気概を奪っている気がする。

 

 昔からのファンは思い出していただきたい。かつて、欧州のサッカーシーンではGKにたいするバックパスに対して盛大なブーイングを贈るのが常だった。日本でも、そのまねごとは広まったが、しかし、まねごとをしていたうちの一人であるわたしには、バックパスに対する怒りや不満はなかった。欧州で流行ってるからやっただけ。消極的なプレーに我慢できず声をあげていたわけではなかった。

 

 バックパス、あるいは逃げのプレーが容認される日常と、不満をぶつけられる日常。人間が環境に適合する生物である以上、育つ選手が別物になってくるのは当然のことだ。

 

 ファンが変われば選手も変わる。そのことを、タイ戦の90分は改めて教えてくれたように思う。過激化する必要はまったくない。ただ、退屈なプレーを容認するファンが多数派である限り、海外組と国内組の違いは、日本サッカーの課題として残り続けていく。

 

<この原稿は24年1月4日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>


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