カープは2年目のシーズンオフに、再び大きな問題を抱えることになる。名古屋軍による長谷川引き抜き事件である。2年連続で最下位と終わっていたが、戦力の整わない中、2シーズンを戦い抜いたことは及第点であった。

<白石、武智ほか二、三の選手を除いては、ノン・プロ級の選手ばかりの貧乏球団>(「中国新聞」昭和27年1月3日)

 

 資金のない中、よせ集め集団でも、時折、巨人や阪神に勝った。資金力のある親会社の強固な経済体制に支えられるチームに、一泡吹かせる姿は、地元・広島ファンにとってたまらないものだった。

<「堂々、“大物食い”の異色のチームができあがったわけですから」>(同前)

 

 戦後復興に明日の夢と、躍進する地元球団を重ねる広島県民市民らは、カープの試合があれば、身銭を切り、全力で応援した。

<広島のファンといったら根っからの野球狂い、カープの試合がある日は朝からソワソワと心落ち着かず>(同前)

 

 試合がある日は、なんとしてでも球場に駆け付ける。さらに、酒樽にお金を投げ込み、球場入りをする。おらが郷土広島に誕生したカープを応援しない者は皆無といえた。こうした中で起こった名古屋軍による「エース長谷川引き抜き事件」は、ファンも心穏やかではなく、その去就に気が気ではなかった。

 

家族思いのエース

 名古屋軍は、「長谷川へ統一契約書が届かなかった」という不備をついた。カープと長谷川は年を越しても契約を交わさず、名古屋軍は長谷川を拉致するかのように、囲い込んだ。温泉場を泊まり歩かせるという、挙に出ることは述べてきた。

<カープの長谷川良平投手の拉致を名古屋が画策したのである>(『ああ中日ドラゴンズ』鈴木武樹著・白馬出版)

 

 こうした中、長谷川のみがカープ3年目の投手陣のラインアップにあがっていなかった。

<カープ本年の新陣容決る>(「中国新聞」昭和27年1月3日)と報道された。石本秀一監督は12月30日、3年目の新陣容の中で投手陣を発表したのだ。

 

 以下、カッコ内は前年(昭和26年)の勝数である。

笠松実(5勝)、杉浦竜太郎(6勝)、萩本保(1勝)、渡辺信義(0勝)、斎藤宗美(0勝)、石黒忠(0勝)、松山昇(新人)である。

 

 戦力が未知数の新人・松山を除いて考えると、笠松と杉浦は戦力として奮闘しているものの、合わせて11勝である。到底、プロ球団として1年間戦えるチームではないのは明白だった。6人の勝利数を合計しても、長谷川1人があげた17勝に及ばない。長谷川の存在なしに、投手陣の戦力を考えられないのが、カープの実状であった。

 

 長谷川が発した爆弾声明とは、統一契約書の条項を用い、「広島カープが履行せず、私は自由選手になったので、意中の球団へいく」というものである。意中の球団というのは、当然のことであるが名古屋軍。「統一契約書が届いていない」という彼の言葉を聞き、統一契約書の規定のスキをついて、引き抜きに乗り出したのだ。このことは過去の定説として、カープ史に記されてきた。しかし、他にも諸説がある。それは半世紀を超えているため、すべて時効であり、忍び寄る魔の手があったのかどうか、その証言も含めて記載する。

 

 長谷川の出身地は、愛知県半田市の亀崎という町であり、実家は戦時中の配給所を兼ねた雑貨屋を営んでいた。その雑貨屋が生家であり、母親の面倒をみるために姉も暮らしている。そして、いつか長男の長谷川が、仮にプロの世界で通用せず、食いっぱぐれることがあろうものなら、戻る場所として残されていた。

 

 家族への思いが強い長谷川にしてみれば、地元名古屋軍からの誘いに対し、すぐにでも飛んで帰りたいと思ったとしても、なんら不思議はなかった。むしろ、自然なことと言えた。

 プロ入りしたばかりの昭和25年3月に父を亡くしている。試合中に届いた「チチ、キトク、スグカエレ」の電報を、監督の石本に見せた時、その言葉に驚愕したのだ。

 

「試合が終わったら帰ったらエエ」。長谷川はプロとはなんと厳しい世界なのか、親父の命が危なくても、実家に帰らせてもらえないとは――。

 長谷川が最初に浴びたプロの洗礼とは、戦う者として、家族との別れにも立ち会えないということ。長谷川が実家に戻った時、父は息を引き取った後であった。こうした辛い経験を経たからこそ、プロとしてやっていくことの厳しさを誰よりも感じていたのだ。

 

カープ洋服店店主の証言

 長谷川は、家族のこととあれば、なんでも自分が背負うかのように行動していた。当時のチームメイトにも「お前ら、親孝行はせんといけんぞ」と、実家への仕送りを促していたのも彼ならではだった。

 こうした中で、長年、多くのカープ選手らが、スーツの仕立てに立ち寄った「カープ洋服店」の店主・岡本善行の証言(※)は、非常に興味深いものだった。

 

「はあ、7月までに、もらっておったの!」

 岡本は「もらった金額までは知りゃーしませんがね」と言うものの、長谷川引き抜き事件が勃発するのは、昭和26年12月。つまり、その5カ月前の7月には名古屋軍から、金銭をもらっていたのである。ある一定の金額を手渡し、口約束的な内諾がシーズン中の7月にすでになされていたということだ。

 

 しかしながら、この長谷川に金銭を渡されたという証言の真偽については、すでに70年以上も経っていることから確かめる術がない。しかし、この当時のカープの苦境は、県民市民誰しもが知っており、満足な給料はもらえるわけではなかった。仕送りを欠かさない長谷川にとって心が動いてもおかしくはない。証言者の岡本は、長谷川とは麻雀に明け暮れた若き日から、ありとあらゆることを聞かされた無二の存在。「死ぬまで、友達だった」との岡本のコメントからも真実の可能性はあるだろう。

 

 さておき、この昭和26年の名古屋軍の成績は2位だった。前年のセパ分裂元年も2位。この年は4月から名古屋軍独走の勢いがあったが、過去に経験したことのない優勝争いのプレッシャーは大きく、2位という結果に終わった。

 

<「四月までの段階で、首位を続けていたとき、主力選手が、あまりにも息苦しいから、いちじ二位におりて、緊張をといてからまた浮上しましょうと、天知に申し出て、それを天知が承知したことである」>(『ああ中日ドラゴンズ』鈴木武樹著・白馬出版)

 主力選手らが、天知茂監督に、一時2位に落ちようと申し出て、受け入れずにはいられなかったほどの独走状態であった。スポーツの世界において、下がるのは容易いが、再浮上していくのは難しい。結果、こうした2位に下りようという生ぬるい発想から、1位に戻ることはできなかった。

<ドラゴンズの、よく言えば『おっとりとした』、悪く言えば『覇気のない』チーム・カラーができはじめたのもこの年あたりのことだと言われる>(同前)

 

 2年連続の2位で終わった名古屋軍にあって、優勝を目指すためには愛知県出身の長谷川を獲りに行くのは至極自然なことだろう。カープの屋台骨を1人で支え、孤軍奮闘する長谷川を見て、「なぜ、酷使される広島にいるのか」という疑問が生まれ、名古屋軍へ入団すればよいと、長谷川獲得に乗り出すことは、なんら不思議はない。起こるべくして、起こったことである。

 

 今回の考古学は、ある証言による一つの俗説として、記させていただいたものであるが、次回の考古学は定説に基づく真実へと迫りたいと考える。名古屋軍にとって、いかに長谷川が魅力的な逸材であったか。乞うご期待。

 

【文献】

「中国新聞」(昭和27年1月3日)、『カープ50年―夢を追ってー』(中国新聞社)、『中日ドラゴンズ 四十年史』、『中日ドラゴンズ 五十年史』(中日ドラゴンズ)、『ああ中日ドラゴンズ』(鈴木武樹著・白馬出版)

 

【※注記】

岡本善行証言:2011年9月11日(二葉公民館にて)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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