西本恵「カープの考古学」第72回<カープ再び危機――長谷川引き抜き事件編その4/エースをあやつる黒幕とは!?>
カープの草創期は苦難続きだった。2年目のシーズンを終えた年末から年始にかけては、チーム編成において絶体絶命の危機であった。エース長谷川良平を引き抜こうと、彼の故郷愛知県の名古屋軍があの手この手で策略を凝らしたのである。これには名古屋軍による黒幕の存在があったとされる。その黒幕とはいったい何者だったのか――。
正月のお屠蘇気分の残る1月8日、カープの主力・白石勝巳をはじめ、投手野手の二刀流・武智修ら4名が名古屋に入り、長谷川を連れ戻そうとするが、一切の連絡が取れなかった。
<長谷川獲得(※奪い返すの意)のために名古屋に赴いた白石武智らの四選手は、長谷川選手が黒幕と所在をくらましているため徒労に終わった>(「中国新聞」昭和27年1月10日)
名古屋軍のフィクサーともいえる黒幕の存在が長谷川をかくまっていた。そのためカープの主力らは会うことができず、不穏な年明けを過ごすこととなった。
晴れがましい新年で、カープにとって、これまでさんざん悩まされた球団財政の中、後援会によって光明が見えてきたことからカープに期待を寄せる思いも報道された。
<この間、一万六千人を擁する後援会の結成もあり、チームは劣勢ながらも、よく、三割三分三厘と予想以上の成績を収め>(「中国新聞」昭和27年1月3日)と伝えられた。また、日本は独立国家として、自由主義陣営に組み込まれていき、社会主義陣営との冷戦の渦中に立たされもした。この年の最初の世界的なトピックスは、広島に原爆投下の決断をしたとされる米国のハリー・S・トルーマン大統領と、英国のウィンストン・チャーチル首相が会談を行うとあり、連日紙面を賑わせた。
この会談は、ワシントン現地9日に開催され、共同コミュニケーションという形で声明が出された。自由主義か、社会主義か――。世界的に冷戦構造の緊張感が漂った。さらに輪をかけて、第三次世界大戦勃発かというキナ臭さは確かにあった。
<「われわれは決して戦争が不可避であるとは考えない。米英両国の政策はすべてここから出発している」>(「中国新聞」昭和27年1月11日)
自由主義陣営の米英両国のコメントに日本国民をはじめ、被爆地広島としても注目せざるを得なかった。というのも、核兵器開発競争が加速していく中、アメリカがこの会談で出した共同声明は、核兵器使用に際して、使う基地のことである。
<チャーチル英首相が、トルーマン米大統領が原爆攻撃のための英本国の空軍基地を使用する場合には必ず、事前に英国の許可を得るむねの確約を得たことが明らかにされた>(同前)
要は社会主義陣営への核攻撃とあれば、イギリスの基地から発射する許可を得たというのである。それほど世界情勢が揺れ動いていた中だった。またこの時期、任期を終える大統領トルーマンが次回大統領選へ出馬するのか、しないのかにも注目が集まっていた。
<ト大統領、出馬断念か>(「中国新聞」昭和27年1月10日)
トルーマン大統領が、現地3月18日に行われるミネソタ州、予備選挙に出馬をしないと報道された。世界大戦最中に大統領に就任し、2期務めていた。3期目の出馬も可能だったにもかかわらず、見送ったのである。
マスコミを利用したプロテクト
こうした動きのあった1月10日に、中国新聞はカープのエース長谷川を、保留選手として発表した。マスコミ紙面を実にうまく利用し、長谷川の存在を明確にしたのである。
<長谷川、保留選手に>(「中国新聞」昭和27年1月10日)
<プロ野球セ・リーグ広島カープ石本監督は九日同選手を保留選手とする旨セ・リーグおよび同選手に通知した>(同前)
保留選手の規定とは、このオフにプロ選手である者はどの球団との契約を交わす場合でも、統一された書面で契約することが定められた“統一契約書”が整備された中で明解にされたものである。選手と既存の球団の契約が合意に達しないケースにおいても、既存の所属の球団は、選手が他球団へ移籍しないようにプロテクトできる制度である。
<一月一日から十日以内に当俱楽部(※球団のこと)は通知書をもって当選手に対し向う一年の期間において本契約を更新する権利を保留することができる>(同前)
しかし、この報道は長谷川自体の居場所が分からなかった時期のものだ。カープは長谷川を保留する意向を新聞で伝えることで、統一契約書条項に則って契約を進めていくためであったとされる。
このことは推測の域を出ない。だが、こうした手法が使えるのも、元は毎日新聞記者として鳴らした監督の石本秀一ならではのマスコミ操作術だろう。
石本はこれまで難局に遭遇した時、並々ならぬ精神力で、危機を脱し、カープを救ってきた。極限状態に置かれたいかなる危機も、ありとあらゆるアイデアでひとつずつ課題をクリアすることで、事態を改善に導いていくのだ。これは野球においてのみではない。選手の引き抜き合戦においても、マスコミをも巻き込み、世論を味方につけるのだ。これは石本が政治記者として培ってきた世論形成術に他ならない。過去に政治記者であった監督というのは、後にも先にも石本のみと言われている。
<私が知る限りにおいて政治記者出身の監督は大阪タイガースや広島カープなどの指揮を執った石本秀一だけである>(「スポーツニッポン」唯我独論・二宮清純2018年12月19日)
名古屋軍の代表を糾弾する
さらに、石本は手を緩めない。明けて翌日の中国新聞には、石本自らが長谷川問題の急先鋒となるべく、矢面に立ったのだ。
<長谷川問題に爆弾声明・石本監督>(「中国新聞」昭和27年1月11日)と前置きした後に、名古屋軍の代表を糾弾したのだ。
<張本人はセ・リーグ理事長・名古屋軍代表 中村氏>(同前)と見出しは躍った。長谷川をかくまう名古屋軍に対し、自身の声明をぶちあげて大々的に報じたのだ。
<彼の周囲に躍る黒幕の陰謀にたいしては、もはや黙殺することはできない>(同前)
この黒幕こそが、名古屋軍の代表であり、セ・リーグの理事長でもある中村三五郎であると名指しで非難をあびせた。これに対し、記事内で中村氏も冷静に応戦している。
<「長谷川自身は広島に帰りたくない意志を表明し、長谷川、広島間の溝が大きくなったので今月はじめ正式に川口代表(※広島カープ球団)あて、移籍を申込んだ>(同前)
あくまでも長谷川が出した声明に基づいて行動したと抗弁。正式に移籍の申し込みをしたという流れを説明している。
しかし、これら一連の記事の核心として、石本は組織の総元締めを黒幕として糾弾した。その狙いが次の一文で解説されている。
<石本監督が中村氏が黒幕だとする理由は中村氏自身が長谷川をあやつっているというのか、あるいは名古屋軍が長谷川を入れるためにいろんな方面から画策しているから、その総元締めである中村氏に責任があり、その意味で黒幕だとするのか判らないが、恐らく後者の意味であることはほぼ間違いがない>(同前)
要は、球団の総元締めである中村をやり玉にあげ、諸悪の根源であるかのように批判したのだ。この奇策は、組織のトップを批判することで、名古屋軍全体の動きを止めさせたいという狙いであり、これが石本の真骨頂であろう。カープの戦力を守るために選んだ手法なのである。
名古屋軍の何者かがたくらみ、長谷川獲得を画策して動きをやめない中、石本はその黒幕が中村氏ではないかもしれないと感じつつも、あえて中村氏を批判したのだ。
では、黒幕の存在は。そして、いったい誰なのか――ということになるが、中村氏にかわる黒幕の存在は、カープ史の定説ではあったとされる。
その男の名前は小野稔という名古屋軍のスカウトをしていた人物である。
では、その小野稔とは、今回の長谷川引き抜き事件で何をしたのか――。
<声明書や提訴状もすべて小野が書いた>(『カープ30年』冨沢佐一・中国新聞社)
長谷川が起こした爆弾声明をはじめ、セ・リーグコミッショナー宛に出した提訴状もすべて小野が書き、すべてを仕組んだというのだ。
さて、「カープ再び危機――長谷川引き抜き事件編」において、前回の考古学でふれた俗説と、今回の考古学でふれた定説であるが、その流れの中に、小野の存在が浮かび上がってきた。諸説が入り乱れ、解明がなされていない長谷川引き抜き事件であるが、定説の中にある小野の存在について、まずは明らかにしなければなるまい。
次回の考古学では、長谷川引き抜き事件の黒幕とされる一人の人物、小野稔をキャッチアップしてお伝えする。乞うご期待。
【参考文献】
「スポーツニッポン」唯我独論・二宮清純(2018年12月19日)、『カープ30年』(冨沢佐一・中国新聞社)、「中国新聞」(昭和27年1月3日、10日、11日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)