檜垣には忘れられない2つの出来事がある。ひとつは高校3年生の夏、そしてもうひとつは大学4年生の秋のことだ。今治西高時代、檜垣は2年時からサードのレギュラーを取り、長打力を武器に中軸を任されていた。迎えた最後の夏、今治西は21年ぶりの甲子園を目指して県予選に臨んだ。
 夢がついえたタイムリーエラー

 その年の愛媛県大会は実力校がひしめき、混戦が予想されていた。本命は前年夏の甲子園でベスト4に進出した松山商。2年生エースとして4強入りの原動力となった阿部健太(現阪神)は3年生になって、さらに速球の威力が増していた。対抗はサイドスローの鎌倉健(元北海道日本ハム)を擁する川之江。こちらも投手力では夏将軍の松山商にひけを取らないと前評判が高かった。さらには今治西をはじめ、西条、新田といった甲子園経験のある学校も優勝候補にあがった。どこが勝ってもおかしくない。そんな予想の中、戦いの火ぶたは切って落とされた。

 今治西は初戦、優勝候補の一角にあがっていた新田といきなり顔を合わせた。1回戦屈指の好カードといわれたゲームは追いつ追われつの展開となる。初回に1点を今治西が先行すると、新田はすぐさま追いつき、逆転。しかし、5回に同点のチャンスを迎えた今治西は檜垣がきっちりと犠牲フライを放つなど、2点を奪って再逆転に成功する。なおも、新田が追いすがり3−3の同点となって試合は終盤に突入した。

 8回、今治西に待望の勝ち越し点が入って4−3。さらに2死2、3塁でバッターボックスに檜垣が入る。是が非でも追加点がほしい場面、アイランドリーグでも勝負強さをウリにする左バッターは、この時点で既にその片鱗を覗かせていた。打球はセンター前に抜ける2点タイムリー。結局、新田の猛追は1点及ばず、6−5。檜垣の一打が結果的には決勝点となった。中軸としての役割をこなし、強豪対決を制した今治西は2回戦に進出する。

 次に立ちふさがったのは三瓶だった。三瓶は甲子園経験のない学校だが、この年はプロ注目の長距離砲、松下圭太(元阪神)が4番に座り、台風の目と目されていた。序盤はゼロ更新が続く展開も、今治西が5回にようやく先取点を奪う。ところが――。

「今でも、あの打球の残像ははっきりと覚えています」
 檜垣が忘れられないと語るシーンは、その直後にやってくる。6回、今治西は2死満塁のピンチ。次打者の放ったゴロはサードへ飛んできた。サードを守っていた檜垣がこれを難なくさばいてスリーアウトチェンジ、のはずだった。

 次の瞬間、悲鳴と歓声が同時に坊っちゃんスタジアムにこだました。檜垣のグラブに収まると思われた白球は外野に抜けていった。檜垣は大事な場面でトンネルを犯してしまったのだ。走者が相次いで生還し、試合はあっという間にひっくり返った。ゲームの流れを変える痛恨のタイムリーエラーだった。

 その後、今治西打線の反撃は1点止まり。2−4。甲子園にははるか遠い2回戦で最後の夏は終わりを告げた。
「体が動かなかった。今でも何であれを抜かしたのかなと思いますね」
 自分のミスで負けた。それは、甲子園だけを目標に3年間、練習に打ち込んできた檜垣にはショックな出来事だった。その年の甲子園はもちろん、大学に入って、しばらくしてもテレビで高校野球が見られなかった。

 ただ、それから守備に対する意識は大きく変わった。アイランドリーガーとなった今、檜垣はひとつひとつの打球を丁寧に処理するよう心がけている。
「これは無理かもしれませんが、今年は80試合、無失策を狙いたいんです」
 高3の夏、1球の怖さを思い知った。だからこそ、守備はもっとうまくなりたい、もっとうまくならなくてはいけないと感じている。

 1部昇格の喜びの裏で

 高校卒業後、檜垣は専修大に入学した。専大といえば東都大学リーグ(1部)で最多の31回の優勝を誇る古豪だ。近年だけでもドジャースの黒田博樹、阪神の江草仁貴など何人ものプロ野球選手を輩出している。当時の専大は東都大学リーグの2部に所属し、優勝して1部との入替戦に出場するものの敗れるといったシーズンが続いていた。1、2年時の檜垣は下級生ながら、大事な入替戦に代打出場するなど、ゲームに出る機会は少なくなかった。しかし、学年が上がるに連れて、出場はおろかベンチ入りすらできなくなった。

「試合に出たくても出られない。ツライ時期でしたね」
 自分の中では練習も一生懸命取り組んでいるつもりだった。他のベンチ入りメンバーと比べて、特段、何かが劣っていると感じるところもなかった。それなのに、なぜ……。野球を辞めたい。初めて、そんな思いが頭をもたげた。

 悶々とした日々を過ごしながら、檜垣は最上級生となった。最後のシーズンとなった06年の秋季リーグ、専大は2部で圧倒的な強さをみせる。すべての大学から勝ち点をあげ、10勝1分1敗の好成績。2部を制し、再び1部への挑戦権を確保した。檜垣本人もチームの快進撃はうれしかった。ただ1点、自分が1試合も出場できなかったことを除いては。

 日本大との入替戦、やはりベンチ入りメンバーには選ばれなかった。勝っても負けても大学生活最後となるゲームを檜垣は神宮のスタンドから眺めていた。チームメイトはリーグ戦での好調を維持し、篠田純平(現広島)を擁する日大に初戦は延長12回の末、サヨナラ勝ち。1部昇格に王手をかける。

 第2戦、2部転落を阻止すべく篠田を連投で先発マウンドに上げた日大に対し、専大打線は初回から小刻みに得点を重ねる。7−2。5点リードの最終回、同級生の長谷川樹が三者凡退で最後のバッターを打ち取った。1部昇格決定。マウンドでは歓喜の輪ができ、スタンドからは紙テープが投げ込まれる。檜垣たちの学年にとっては入学以来、何度もはね返された1部の壁を最後の最後でようやく乗り越えられた瞬間だった。

 ともに汗を流してきた仲間たちがグラウンドではしゃぐ姿を見つめながら、檜垣もしばらくは喜びに浸っていた。しかし、それは次第に悔しさへと変わった。これで大学生活も終わりか……。そう思えば思うほど、不完全燃焼の思いが強くなった。

「大学4年間、それなりの結果を残していれば、社会人野球に行っていたかもしれませんし、大学で野球をやめていたかもしれません。少なくともアイランドリーグにはいなかったでしょう。ただ、大学時代はまったく満足できなかった。これでは野球はやめられないとの思いが、僕を動かしているのだと思います」

 実績のない大学生に当然、社会人チームからのお呼びはかからなかった。地元に帰って、最後のチャンスに賭ける。檜垣はアイランドリーグへの挑戦を決意することになる。それから1年、本人も語るように彼の野球人生は大きく変わった。高校、大学時代に意識していなかったNPB入りを強く意識するようになった。

 高校と大学生活の最後にそれぞれ味わった苦い思い出。それらを過去にさかのぼって美しい記憶に変えることはできない。しかし、未来へ前進するエネルギーに変えることはできる。そして、諦め切れなかった野球への情熱はようやく花を咲かせようとしている。

(最終回につづく)

<檜垣浩太(ひがき・こうた)プロフィール>
1984年4月26日、愛媛県今治市出身。左投左打の内野手。今治西高時代は2年時より中軸を任される。専修大を経て、07年度のアイランドリーグのトライアウトを受けるも不合格。愛媛に無給の育成選手として入団する。キャンプでアピールし、2月に選手契約。4月度に打率.412の好成績を残し、月間MVPに輝く。リーグ1年目の成績は全90試合に出場して打率.309、6本塁打、51打点。三塁手のベストナインを獲得した。今季はショートに挑戦し、4番の重責を荷う。背番号は26。






(石田洋之)
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