堂上の強肩ぶりを物語るエピソードがある。高知ファイティングドッグスとの試合のことだ。1塁にリーグ盗塁王の経験もあるYAMASHIN(山本伸一)が出塁した。YAMASHINは、するするとリードをとって足場を固めている。「どこかで走ってくる」。マスク越しに堂上はランナーの気配を感じていた。
 バッテリーを組んでいた右腕の金子圭太に堂上はカーブを要求した。すると、ピッチャーがモーションに入るやいなや、横目にスタートを切るYAMASHINの姿をとらえた。相手に完璧なスタートを切られ、しかもピッチャーの投げるボールは変化球。盗塁を刺すには圧倒的に不利な状況である。

「これは間に合わない!」
 堂上はミットにボールを収めると、座ったままの態勢でボールを右手に持ち替え、セカンドにすばやく送球した。矢のようなスローイングがセカンドベース上に到達。捕球した内野手が滑り込んできたYAMASHINにタッチした。
「アウト!」
 リーグトップレベルの俊足の持ち主も、呆然とそのジャッジを受け入れるしかなかった。

 最初の指名漏れ

「一昨年も昨年も何度か座ったまま投げて刺しました。ランナーに(ピッチャーのクセを)盗まれてしまった時に使っていますね」
 捕手が座ったままセカンドへ送球する。メジャーリーグでは時折、見られる光景である。しかし、日本球界では城島健司(マリナーズ)がホークス時代にやっていた程度で、公式戦でお目にかかることはほとんどない。そんなスーパープレーを堂上は四国で何度も披露している。

 実は座ったままのスローイングは、大学時代からやっていた。練習でセカンドまで投げてみると、普通にベースまで届いた。試合でも使ってみると、ランナーを面白いように刺せた。強肩強打の捕手。ドラフト候補として脚光を浴び始めたのはこの頃からだ。

 大学4年時には日米大学野球選手権の日本代表に選出された。投手では馬原孝浩(当時・九州共立大、現ソフトバンク)、野手では鳥谷敬(当時・早大、現阪神)、青木宣親、田中浩康(いずれも当時・早大、現東京ヤクルト)らがいた。捕手は堂上を含めて3名。川本良平(当時・亜細亜大、現東京ヤクルト)、中東直己(当時・東亜大、現広島)の2選手は後にプロ入りを果たしている。第5戦では馬原とバッテリーを組み、延長13回途中までパワーの米国打線をゼロに封じた(結果は延長13回サヨナラ負け)。

 当然、堂上はプロのスカウトから注目を集める存在になっていた。ドラフト会議直前の報道でも複数の球団から獲得の可能性が伝えられていた。ところが――。自らの名前が会議で読み上げられることは最後までなかった。
「監督さんから、“(指名は)ないから”と聞いていたので、そこまでショックはなかったです」
 プロ入り最初のチャンス、扉は開かれなかった。大学卒業後、堂上は日産自動車への就職を決める。

 時給900円台のバイト生活

 社会人野球の強豪チームで経験を積み、数年後にはプロへ行く。そんな青写真を描いて日産自動車に入社した堂上に思わぬ試練が待ち受けていた。入社1年目こそ常時、試合に出ていたものの、2年目に入って急に出場機会が減少したのだ。ケガをしたわけでもない。自分の調子が落ちているわけでもない。それでもゲームに出られなければプロへのアピールはできない。

 迷ったあげく、大学時代の監督に相談してみた。
「アイランドリーグに行ってみたらどうだ?」
 野球を続けたい。そしてプロを目指したい。自らの気持ちにウソをつくことはできなかった。監督のアドバイスに従い、堂上は単身四国に渡った。2006年春のことだった。

 しかし、アイランドリーグは既に2年目のシーズンへ向け、各球団の陣容は固まっていた。当時、1チームの選手数は25名と決められており、欠員が出なければ、いくらドラフト候補にあがったレベルの選手とはいえ、契約を結ぶことはできない。会社を辞めた身で、貯金もほとんどない状態だ。練習に参加しながら、働き先を見つけなくてはならなかった。

 堂上は香川オリーブガイナーズの練習に参加しながら、高松市内の酒屋でバイトを始めた。練習が夕方の5時に終わると、自転車をこいで、バイト先に6時に入る。それから夜中の12時ごろまで、注文に応じてお酒を配達してまわった。借りていた部屋に戻って、ひと寝入りすると、次の日は早ければ10時には練習がスタートする。時給は約900円。1日で稼げるお金は5000円程度だった。

「働きながら空きを待つというのは、四国に行くと決めた時点で分かっていました。だから、その日が来るのを信じるしかない。待ち続けることしか考えていませんでした」
 練習とバイトを往復する日々が約1カ月続いた。ただ、堂上にとってアイランドリーグの練習は正直、物足りないものだった。
「シートノックをすると、大体そのチームのレベルがわかりますよね。やはり大学や社会人と比べると、まだまだでした。こんなところで負けるわけにはいかないと思いましたよ」

 遠慮することなく練習から率先して声を出し、他の選手たちを引っ張った。「雰囲気が変わった」。応援にくるファンが、そう感じるほど、堂上の加入はチームに活気をもたらせた。ほどなくガイナーズには欠員が発生する。契約を結ぶのに時間はかからなかった。

 即レギュラーの座を掴んだ堂上は、いきなり得意の打棒が爆発する。1カ月間で3本塁打を放ち、打率は3割超え。その月(5月)の月間MVPに輝いた。香川に堂上あり。その実力は四国内の誰もが認めるところとなった。攻守の要を得た香川は前期シーズン2位と順位を上げると、後期は念願の初優勝を果たす。リーグチャンピオンシップでも前期優勝の高知を破り、年間優勝を収めた。
「攻守にチームのリズムをつくっていたのが堂上。敵ながら素晴らしいの一言」
 敗れた高知・藤城和明監督(当時)も、堂上こそが優勝の立役者と断言した。

 再び、指名漏れ

 途中加入ながら06年のシーズンは打点と本塁打の2冠王。ベストナインはもちろん、後期シーズンのMVP、年間を通じてのMVPも獲得した。NPBのスカウトも交流試合で対戦したNPBの現場首脳陣も、緑のユニホームを着た背番号27には高い評価を下していた。今度こそ――。周囲はもちろん、本人も大きな期待を胸にドラフト当日を迎えた。

 その年の香川には、他にもドラフト指名が有力視されていた選手がいた。サウスポーの深沢和帆と、先発右腕の伊藤秀範だ。運命の日、堂上は彼らと並んで、朗報が来るのを待った。
 大学生・社会人ドラフト5巡目、巨人が深沢を指名した。「オォーッ」。会見場には拍手と歓声が起こる。深沢は笑顔でそれに応えた。続く育成ドラフト、東京ヤクルトが伊藤秀範を指名した。再び、拍手と歓声が起こる。伊藤は感激のあまり、涙を流した。
 リーグにとっては初のドラフト指名(育成指名を除く)、さらに香川にとっても初のNPB選手誕生だった。球団関係者が喜びの表情を見せる中、堂上はその輪に入れなかった。またも最後まで自らの名前が会議で読み上げられることなかった。

 取り残された彼の心中はいかばかりだったか。
「それはもう……。でも、この経験があったから、今もプレーできているのかもしれません。候補に挙がりながら、指名されないことは何度もありましたからね。ショックに慣れたくはないですけど、ショックを受ける暇なんてなかったですよ。次の日から練習するしかないんですから」
 あきらめるわけにはいかない。幾度も味わった悔しさを堂上は力に変えて前進している。すべては夢を叶えるため――。

(最終回へつづく)

<堂上隼人(どううえ・はやと)プロフィール>
 1982年3月12日、神奈川県出身。右投右打で背番号は27。強肩と強打がウリの大型捕手。横浜商大時代には阪神・鳥谷敬、ソフトバンク・馬原孝浩らと日米大学野球の日本代表にも選ばれ、ドラフト候補にも挙がっていた。日産自動車を経て06年5月より香川オリーブガイナーズに途中入団。打率.327、11本塁打、45打点の成績で首位打者と本塁打の2冠に輝き、攻守にわたって後期V、チャンピオンシップ制覇に貢献した。07年も打率.322、7本塁打、50打点をマーク。2年連続の後期MVPと、独立リーグ・グランドチャンピオンシップ初代MVPに輝いた。現在、ボストン・レッドソックスと入団交渉中。





(石田洋之)
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