その投手は、大きく発達した上体をゆすりながら、ややはにかむように小首をかしげて、外野フェンス脇のブルペンから、マウンドに小走りに走ってきた。救援のマウンドに立つということ自体に、ある種の含羞を隠し切れないようにも見えたし、その一方で逆に、従容として、あるいは昂然として、自分の仕事をまっとうしようとしているようにも見えた。
 その姿を、私は端的に格好いいと感じていた。
 現地時間で4月15日。カンザスシティ・ロイヤルズ対シアトル・マリナーズ。マリナーズの本拠地・セーフコフィールドでの一戦である。
 4−4の同点で迎えた4回裏。マリナーズが無死一塁としたところで、ロイヤルズのトレイ・ヒルマン監督は、先発のジョン・ベイルに代えて「ピッチャー、ヒデオ・ノモ」をコールしたのである。
 そう、この登板は、事実上、野茂英雄の引退を決定づけるものだったといっても過言ではない。

 背番号91。胸に“Kansascity”の文字。およそ2年ぶりに見るメジャーリーガー・ノモは、いったいどのような投手になっているのだろうか。
 打者は8番、右打者のウィリー・ブルームクイスト。初球はアウトローのフォーク、ストライク。2球目はインローにシュート気味のストレート。わずかにボール。え? 右打者のインロー……。

 ところが同じストレートを野茂はさらに続けたのである。それがファウルとなって、4球目。フォークがインハイに入る。ブルームクイストは完全に詰まったが、ライト前へポトリ。無死一、二塁。続くユニエスキー・ペタンコートには初球をタイムリーヒットされて1失点。
 無死二、三塁とされて打席に迎えたのは、1番イチロー・スズキである。野茂対イチローの最後の対戦を、全球振り返っておこう。
 ?ストレート 外角低目 ボール
 ?フォーク 外角低目 ボール
 ?フォーク 外角高め ストライク
 ?ストレート 外角低目 ストライク
 ?フォーク 外角低目 空振り三振

 おそらく、この対戦のポイントは4球目のストレートである。左打者の外角低目いっぱいいっぱいに、ややシュート気味(シュートをかけているわけではあるまいが)に決まるボール。続く5球目は、ほぼ同じ球道で、伝家の宝刀フォークが、外角低目いっぱいからボールゾーンに落ちる。しかも、これは明らかにシンカー気味に逃げながら落ちる。あの、日米通算3000本安打のイチローでも、力なく空振りするしかなかった!

 全盛期の野茂が、このように左打者のアウトロー(右打者のインロー)のストレートを軸にピッチングを組み立てていたという記憶はない。右ヒジのリハビリに耐え、中南米リーグでも投げながらメジャー復帰を目指した、その不屈の精神が生み出した、晩年を生き延びるための投球術なのだろう。ちなみに、この日のストレートの球速は全て137〜138キロ程度である。その程度の球威でメジャーに立ち向かうための、野茂の最後の武器だったのではあるまいか。

 試合に戻ると、イチローの後、2番ホセ・ロペスはレフトフライ。犠飛となって4−6。3番ラウル・イバニエスはレフトフライでチェンジ。5回に入って、4番エイドリアン・ベルトレが目のさめるような豪快なレフトオーバーの二塁打。さらに四球を出したところで、この回、1死も取れずに降板となってしまった。
 確かにヒルマン監督としても、この内容で、中継ぎ投手として起用し続けるという判断は下せないだろう。その後の戦力外通告もいたしかたあるまい。

 ブルームクイストがフォークを詰まりながら運んだライト前ヒット。それからロペスを外野フライに打ち取ったアウトローのストレート(これも浅い当たりで、ホームは間一髪。ギリギリの犠牲フライだった)。この二つの打球が、あと数メートル手前までしか飛ばなければ、あの回、おそらく野茂は無失点で切り抜けられた。
 まさに紙一重。しかし、その紙一重の球威の衰えが、彼を引退に追い込んだのだった。

 ところで、野茂が引退を表明して以来、ときおり1995、96年頃のビデオを見る。ドジャースに移籍して1、2年目。いわば彼の全盛期である。
 気持ちいいですよ。おもわず、気分がハイになる。「ノモ・マニア」なる言葉が生まれ、社会現象になったのも、改めてうなずける。

 もちろん、大きく体をひねってトルネード投法で投げ込むのだが、実は、いったんふりかぶった後、投げにいくところは、リズミカルで、スピード感にあふれている。それから、外角低目いっぱいいっぱいを厳密につき続けるような、神経のすり減るようなスタイルではない。だいたいアウトロー、ときどき高目、いずれもボールがうなりを上げて伸びている。そしてフォーク。95、96年の三振シーンだけを集めてDVDをつくったら、売れるんじゃないですか。だって、気持ちいいもん。この世の全てのストレスから解放されたような気分になる。

 このような効能を発揮するものをもう一つ知っている。広島カープの前田智徳のホームランシーンだけを集めるのである。これも体の芯から快感が湧いてくる。極楽極楽とは、よく言ったものだ。おそらく、松井秀喜のホームラン集ではそういう効果はあらわれない。あるいは、松坂大輔の三振コレクションをつくっても、野茂の三振集のような快感は得られないだろう。
 それはなぜか。

 全盛期の野茂がボールを投げている時、極端に言えば、そこに打者は存在していない。いや、もちろんバットを持って打席に立っていますよ。しかし、打者に合わせて投げていないのである。自分のフォームで自分のボールを投げさえすれば、すなわち、自分のピッチング・スタイルを貫けば、打者が誰であろうと三振は取れる。その確信が、野茂のトルネードに自信をみなぎらせ、小気味よいリズム感を与え、見る者の心を奪う。

 野茂英雄は、ご存知のように日本プロ野球史上随一の開拓者であった。彼がメジャーリーグと日本社会を結びつけた。もし「日本プロ野球史」という本を書くならば、その長い歴史を画した偉大な人物として、必ず二人の選手にふれなければならない。それは長嶋茂雄と野茂英雄である。

 余談だが、「日本プロ野球史」はいかに書かれるべきか、これは重大なテーマでしょうね。あらゆる問題は、どこかで必ず、歴史的に見ることを要求される。一例をあげれば、今、世界的な注目を集める「中国」の問題だってそうでしょう(最近刊行された思想誌「ラチオ」5号(講談社)の大特集「中国という問題群」<川島真編>は、そのきわめてブリリアントな成果である)。

「日本プロ野球史」に戻れば、正統的な歴史観を反映すれば、おそらくこういう章立てになるのではあるまいか。すなわち、
 第1章 長嶋茂雄以前
 第2章 長嶋茂雄時代
 第3章 野茂英雄以前
 第4章 野茂英雄以後

 ここであえて、なぜ「松坂大輔」という章は立たないのか(もちろんあくまで、個人的な見解ですが)、と問うてみよう。
 それは、松坂はメジャーに行って、アメリカのスタイルに順応しようと努力しているからである。松坂も昨年の前半は、アウトの半分は三振で、というスタイルだった。捕手・ジェイソン・バリテックも、「彼は三振かフライでアウトをとる投手」と発言していた。この評価は、きわめて正当である。しかし、球数を減らし、中4日でクオリティ・スタート(先発投手が6回3失点までに抑えることを評価する)を維持するため、そのスタイルは徐々に凡打でアウトを重ねる投法に変わりつつある。それで、前半戦だけで2桁勝ったのだから、たいしたものだ。ただ、言えることは、それは各球団のエース格の投手たちと同等だということだ。

 その点、全盛期の野茂は自らのスタイルを変えなかった。ほかに誰もいない発想と投法で、独自のピッチング・スタイルで、メジャーリーグに君臨した。それは、言葉をかえれば、メジャーリーグの歴史を変えたことに他ならない。期間は3〜4年だったかもしれないが、とはいえ「メジャーリーグ史」に「野茂英雄時代」という1章を刻んだのである。それは例えば、ランディ・ジョンソンやロジャー・クレメンスやドワイト・グッデンが1章を割かれることになるのと同じことである。

 冒頭で紹介した今年4月の投球でも明らかなように、その後、野茂もスタイルを変えた。しかし、それは球威に衰えが見え始めてからのことである。
 たしかに松坂は、少なくとも現時点で、メジャーリーグに十数人程度しかいないトップクラスの先発投手の一人である。それ自体が、すごいことに違いはない。ただ、こうは言えるだろう。
 野茂は自らのスタイルで日本野球の歴史を変え、メジャーの歴史も変えた。松坂は、そのメジャーの歴史に見事に溶けこんだのである。 

 それもまた、松坂という投手の魅力なのかもしれない。しかし、私は野茂の奪三振ビデオを見直しながら、あらためて歴史を変えた存在としての“偉大なる野茂”を思う。そして、今後、彼のように、野球の歴史そのものに自らの存在を刻みつけ、歴史を変えるような、見る者の体の芯から快感の湧き立つような選手が出現することを願う。

 思えば冒頭に描いたリリーフのマウンドに向かう姿が、なにほどか含羞をあらわにしているように見えたのは、あるいは自らの終焉を予期したこの大投手の、野球の歴史そのものへの含羞であったのかもしれない。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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