阪東浩徳がボクシングを始めたのは小学3年の頃、父親にジムに連れていかれたのがきっかけだった。阪東の父親は視力が悪かったためプロになれなかったものの、大のボクシングファン。さらに、実の兄と従兄弟はプロボクサー(阪東タカ、阪東竜)。2人の妹もボクシングジムでトレーニングを積んでいる、阪東家はボクシング一家だ。
 そんな環境に育った阪東だが、はじめからボクシング一筋だったわけではない。
「小学6年から中学3年の春までサッカーをしていました。ボクシングも続けていたけど、本気でどっちに進もうか悩みました」
 中学2年の時にはサッカーでブラジル留学を本気で考えた。当時、Jリーグが発足したばかりで日本中がサッカーに沸いた時期だった。
「結局、団体競技か個人競技かで判断して、自分の力で勝敗つくほうがすっきりするな、と。喜びを独り占めしたかったんです。あと、ケンカが好きだったんで、人を殴ってお金がもらえるなら天職かなって」

 ボクシング一本に絞った阪東はみるみる実力をつけはじめる。中学3年でインターハイ王者をKOしたこともあった。その時、レフェリーに“これから”というタイミングでストップをかけられ、アマチュアではやらないと決意した。“倒すか倒されるか”が信条の阪東に、ヘッドギアやポイント制といったアマチュアのリングは物足りなかった。

 ボクシングとの出会いは門田会長との出会いでもあった。門田新一といえば、現役時代には東洋太平洋王者に登りつめ、あのガッツ石松をも人気、実力で凌いだ名ボクサーである。世界王者にはあと1歩届かなかったが、自分の果たせなかった夢の実現のため、故郷・愛媛にジムを構えた。そして1997年2月、満を持して東京進出。時を同じくして阪東も上京した。

 出会った頃の阪東はジムを遊び場にしていつも門田会長に叱られた。「昔に比べたらよく練習していますよ」と笑う門田会長。阪東との付き合いはもう20年にもなる。「会長とは長い付き合いですからね。なんでも知っていますよ」と阪東。愛媛弁で会話する二人の間には強い信頼関係が生まれている。

 この頃、“阪東ヒーロー”というリングネームが誕生する。
「会長の知り合いに勝手に決められたんです。最初は恥ずかしかったですよ。でも今は慣れたし、気にいってる。覚えられやすいしね」

初めての挫折

 1998年6月、阪東ヒーローはプロデビュー戦を1ラウンドKOで飾り、華々しいスタートを切る。その後も引き分けを挟んだものの無敗で東日本新人王決勝戦まで勝ち上がった。
 決勝の相手はアメリカ出身のハードパンチャー、ユージ・ゴメス(八王子中屋)。阪東は「何もできずに気失ったからわからない」の言葉通り、わずか44秒で人生初のKO負けを喫した。
「すごくショックでした。ボクシングをやめるというレベルではなくて、死のうと思いました。試合後の1カ月間で3回も。3回ともジムの先輩に止められましたけど」

 この敗北は阪東の自信を打ち砕いた。幼い頃からボクシングジムに通っていたため腕っぷしには自信があった。プロのリングに上がってからも、強いと感じた相手はいない。「1発もらったら3発返す」。ボクシングをケンカの延長ぐらいに考えていたのかもしれない。
「自分が世界で一番強いと思っていた。練習しなくても勝てる。世界もすぐに獲れるだろうとバカみたいに天狗だった」
 多くのボクサーが直面する壁。自分より強い男がいるという現実――。

 プロ生活10年で30試合以上のキャリア積んだ現在の阪東はこう考える。
「今でも自分が一番強いという意識はある。しかし、自分より強いヤツがたくさんいることも知りました。でも届かないことはない。努力すれば自分が本当の一番になれると信じています」

 阪東は初めての挫折で、自分より強い男がいることを知る。その出来事がケンカ自慢の阪東浩徳をプロボクサー阪東ヒーローに生まれ変わらせた。

(第3回に続く)

阪東ヒーロー(ばんどう・ヒーロー)プロフィール
本名は阪東浩徳。ファミリーフォーラムジム所属。1980年11月29日、愛媛県伊予郡出身。小学3年の頃に父親にジムに連れて行かれてボクシングと門田新一会長に出会う。中学卒業後、ジムの東京進出と同時に上京し、17歳でプロデビューを果たす。東日本新人王準優勝。05年9月、“賞金100万円”が懸かったエドウィン・バレロ戦の勇敢な戦いぶりが賞賛を集め、注目を浴びる。08年6月、自身初のタイトルマッチとなった一戦でOPBF スーパーフェザー級王者・内山高志に挑むが、惜しくも判定負けに終わる。プロ戦績は19勝8KO9敗6分。身長172センチ。





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