2008年8月8日、午後8時8分(現地時間)、北京五輪が華々しく開幕した。開会式が行われたメイン会場の国家体育場、通称「鳥の巣」には世界から史上最多の204カ国・地域のアスリートたちが一堂に会し、これから始まる17日間に及ぶ戦いを前に気持ちを高ぶらせていた。
 その中にはビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋の姿もあった。
「よしっ、いよいよ始まる!」
 4年間、待ち続けてきた舞台の幕開けに酔いしれると同時に、改めてメダル獲得への意気込みを感じていた。
 楠原がペアを組む佐伯美香と北京五輪出場権を獲得したのは7月17日のことだった。1ケタ台の順位に入れば出場が確実とされ、大一番となったワールドツアー最終戦マルセイユ大会(フランス)。敗者復活3回戦でメキシコ組に2−1で逆転勝ちを収めた佐伯・楠原組は、9位以内が確定し、同時に世界で24しかない五輪出場枠に入った。日本代表としては全種目で最も遅い決定だった。本番までは3週間余りに迫っていた。

 しかし、楠原たちにじっくりと調整する余裕はなかった。22日に帰国した楠原たちは、その数日後には大阪にいた。全日本女子選手権に出場するためだ。ところが、ここで思わぬアクシデントが2人を襲った。1、2回戦を順当に勝ち上がった佐伯・楠原組は準決勝へとコマを進めた。実力で言えば、決勝進出はかたかった。しかし、2人は翌日の準決勝を棄権。連戦に続く連戦に36歳ベテラン・佐伯の体が悲鳴をあげたのだ。

 それでも2人はゆっくりと休むことはできなかった。31日には東京都内で催された全日本バレーボールチームの壮行会に出席。そして8月3日からは北京五輪前の最終戦、ビーチバレージャパン&マーメイドカップに出場した。昨年はこの大会で2人は優勝している。連覇で締めくくり、北京五輪に弾みをつけたいところだったが、4チームリーグ戦で行われた初日の2試合で連敗を喫し、2年連続3度目となる優勝への可能性を失った。
 それでも翌日の最後の試合は2−1で逆転勝ちを収めた。
「素直に嬉しい」
 試合後、楠原はそう語った。かたちはどうであれ、勝利で締めくくったことに安堵感を覚えていた。

「本当はもっと早い段階で、出場が確実なところまでもっていきたかった。(北京五輪前の)最後の方の大会では調整段階に入りたかったんです。ところが、思うように結果を出すことができず、最後の最後まで必死にやらなければいけなくなってしまった。本番までの調整期間の短かさに内心は不安を抱いていました。しかも国内の大会も残っていましたので、試合に出ながら調整というかたちをとらざるを得ませんでした。正直、残り3週間は調整期間にあてたかったというのが本音です」

 ビーチバレーはインドアのバレーボールとは異なり、競技人口、注目度ともにまだ国内ではメジャースポーツといえる状況にはない。世界に通用する技術をもつ選手もほんの一握りである。そのため、女子で唯一五輪出場を決めた楠原たちはビーチバレー界にとっては貴重な人材。五輪前に彼女らのプレーをひと目見ようと楽しみに試合会場を訪れるファンも少なくない。彼女らが調整あるいは疲労を理由に欠場することができなかった背景には、こうしたビーチバレーのおかれた状況が一つにはあった。

 とはいえ、北京入りしてからの2人は順調だった。試合は第3日からだったため、開会式もゆっくりと堪能することができた。「開会式が一番肌で五輪を感じられる」と楠原。初めて最後まで開会式に参加した佐伯もまた、自分が五輪の舞台に立てた喜びを噛み締めていた。

 北京五輪では24組を4組ずつ6つのグループに分かれて1次リーグを行い、各グループ上位2組、全16組で決勝トーナメントが行なわれる仕組みとなっている。佐伯・楠原組はアテネの覇者・米国組と同じB組に入った。

「アテネのときも米国組とは同じグループで、ストレート負けを喫していました。正直、『またか』とは思いましたね。でも、どことやろうと全て格上のチームですから、すぐに気持ちを切り替えました」と楠原。ペアを組む佐伯も気持ちは同じだった。「私たちは24組中22番目での出場。どこと当たっても私たちより強いことには変わりはないし、逆にどこのグループに入っても自分たちの力を発揮するだけ。そう思っていました」。

 楠原にとっては2大会連続2度目、佐伯は2大会ぶり3度目となる五輪の舞台。北京を一つの区切りとして考えていた2人に共通した思いは“最後に最高の舞台で最高の成績”を残すことだった。
 8月10日、いよいよ戦いの幕が切って落とされた。


楠原千秋(くすはら・ちあき)プロフィール>
1975年11月1日、愛媛県松山市生まれ。小学3年からバレーボールを始め、小学6年時には全国大会に出場。中学でもエースアタッカーとして活躍し、県や日本の選抜チームに抜擢される。大分・扇城高校(現・東九州龍谷高)2年時には山形国体で優勝。東京学芸大学4年時には主将としてインカレで優勝を経験した。ビーチバレーとの出合いは大学3年の時。友人に誘われて出場した大会で優勝し、インドアとは違うビーチバレーの魅力を肌で感じた。卒業後、地元のダイキに入社し、競技として本格的に始める。2004年のアテネ五輪に徳野亮子と出場し、1勝を挙げる。05年に湘南ベルマーレスポーツクラブに移籍。06年より佐伯美香とペアを組み、北京五輪出場を果たした。






(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから