五輪サッカーにおける準決勝進出は男子が銅メダルを獲得したメキシコ五輪以来、実に40年ぶりだった。
 3位決定戦ではドイツに0対2で破れ、惜しくもメダル獲得はならなかったが「なでしこジャパン」の奮闘は列島に感動を呼んだ。

 3戦全敗、1ポイントもあげられなかった男子に比べ、女子の方にハングリー精神を感じたのは私だけではないだろう。
 その理由はどこにあるのか。

 日本女子サッカーリーグはJリーグよりも4年早い1989年にスタートした。後発のJリーグ人気にあやかろうと名称をLリーグに変更した。当時は世界中から著名な女子選手が集まり、「世界最高の女子リーグ」ともてはやされた。
 しかしバブルの崩壊を境に多くの企業が女子サッカーから手を引き、リーグは弱体化を余儀なくされる。注目を集めた96年のアトランタ五輪では3連敗。1ポイントも奪うことができず米国を去った。
 一方の男子は前園真聖や川口能活らの活躍でブラジルを破った。これは“マイアミの奇跡”と呼ばれ、2年後のワールドカップ(フランス大会)初出場へとつながっていく。

 資金力の低下はリーグの低迷を意味する。ブームの去った女子サッカーのスタジアムには閑古鳥が鳴くようになり、95年に715人だった平均観客数はシドニー五輪出場を逃した2000年、4分の1に激減する。
 1試合あたりの平均観客数は、わずか180人。選手の家族とチーム関係者しか観にきていないような試合もあった。現在の「なでしこジャパン」にはこういうどん底の時期を経験した選手が少なくない。
 その代表がエースの沢穂希だろう。
 沢は99年、当時経営難に陥っていた読売ベレーザから年俸の大幅な削減を提示され、退団を余儀なくされた。働き場所を失った沢は、単身渡米しセミプロリーグに入団した。そこでの活躍が認められ、翌年にはプロ契約を果たす。だが4年後、米プロリーグは活動を停止する。このように彼女のサッカー人生は苦難の連続だったのだ。

 このハングリー精神が男子にはない。
 Jリーグがスタートしたのが1993年。つまり五輪の代表選手たちの多くは小学生の頃から「将来はJリーガーになりたい」という明確な目標があった。
 日本リーグ時代の閑古鳥の鳴くスタンドは彼らにとっては“昔話”なのである。
 U−23であれ代表入りすれば注目されるのは当たり前。それなりの報酬もついてくる。活躍すればすぐにCMのオファーがかかる。いい時代に生まれたと言えばそれまでだが、サッカーで苦労を経験したことのない世代なのである。
 具体的に言えば「反町ジャパン」の平均年収が2400万円なのに対し、「なでしこジャパン」のそれは「10分の1程度」と見られている。それどころかプロ契約をしている選手も沢ら7人だけ。
 正確なプレイスキックでチャンスを演出した宮間あや(岡山湯郷Belle)、スーパーサブとして準決勝のアメリカ戦でゴールを決めた荒川恵理子(日テレ・ベレーザ)もアマチュア選手。彼女たちは真珠のネックレス作りや地元商店街でスーパーのレジ打ちといったアルバイトで生計を立てているのである。
 単刀直入にいえば男子選手たちとは背負っているものが違うのである。

 五輪期間中の待遇も天と地ほどの差があった。男子は全員が5つ星ホテルに泊まっていたのに対し、女子は選手村。移動の飛行機は男子がビジネスクラスであるのに対し、女子はエコノミークラス。しかもオーバーチャージを取られないために荷物も最小限に制限された。一方の男子は無制限。
 若い頃に甘やかすとロクなことはない。負けても男子の選手たちの多くはケロっとしていた。年俸が下がることもないからだ。
 サッカー協会が定めたボーナスも男子と女子の間には大きな差があった。
たとえば銅メダルの場合、男子がひとり200万円であるのに対し、女子は75万円。年俸は所属クラブの財政事情によるものだから仕方ないとして、報奨金に差をつけるのはいかがなものか。

 もっとも、そうした“賃金格差”が女子選手たちのハングリー精神を喚起したのなら、これはかたちをかえた“愛のムチ”だったのかもしれない。
 今度はその“愛のムチ”を不甲斐ない男子選手たちに対して振るうべきだ。スポーツは信賞必罰が原則である。

(この原稿は『経済界』08年9月16日号に掲載されました)

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