楠原千秋がバレーボールを始めたのは小学3年の時だった。
「バレー部の先輩に誘われたからという本当に単純な理由なんです。運動部というと、バレーかバスケしかなくて、選択肢がなかったこともあります。まぁ、スポーツは好きでしたし、当時は身長も高い方だったので、やってみようかなと」
 そんな軽い気持ちで始めたバレーだったが、楠原はすぐにその面白さにのめりこんでいった。
 通っていた松山市立三津浜小学校は県では有数の強豪校だったこともあり、彼女にとってバレーは始めから遊びではなく、競技だったという。
「すごく怖い先生で、練習は厳しかったですね。土日も練習で、休みのイメージがないくらい練習に明け暮れていました。でも、不思議と嫌だと思ったことはなかったですね。やっぱり、バレーが好きだったんだと思います」

 小学校で既にエースとして全国大会を経験していた楠原は、中学に入学したと同時にバレーボール部の顧問から声がかかった。
「君がバレーやっている子? 練習においでよ」
 4月から新しく赴任してきたその先生は、実は前年には楠原が北京五輪でペアを組むことになる佐伯美香を教えていた。

 佐伯は当時を振り返り、楠原の印象についてこう語った。
「高校生になって、その先生に会いに楠原の通う中学まで遊びに行った時がありました。その時ですね、楠原を初めて見たのは。練習をじっくり見ていたわけではないので、プレーがどうのっていうのは覚えていないんですけど、とにかく背が高かったので、印象深い選手ではありました」

 チームは県でベスト4進出がやっとというほどのレベルではあったが、そんな中でも県バレーボール界の楠原に対する評価は高かった。中学のバレーボール界では学校単位で行なわれる全国中学校バレーボール選手権大会のほかに、都道府県対抗の大会(さわやか杯、現在はJOC杯)がある。楠原はその選抜チームに2年生の時から選ばれているのだ。

「基本的には3年生を対象にしてチームがつくられるんです。だから当時、私以外で2年生だったのは全国でも10人はいなかったんじゃないでしょうか」
しかも、レギュラーだったというのだから、彼女のもつ能力がどれだけ高かったかがわかる。

 実はその時のチームのキャプテンが、後にビーチバレーで7年間ペアを組み、アテネ五輪の舞台を踏んだ徳野涼子だった。
「同じ松山市内の中学でしたから、普段もよく対戦していたので、楠原とは顔見知りではありました。1つ下なんですけど、試合ではすごく堂々としていたことを覚えています。選抜で初めて一緒にプレーをしたのですが、セッターの私としては安心してトスが上げられて頼れる選手でした。でも、普段は敵ですから、嫌な選手だと思っていましたよ(笑)」

 2年時は2回戦で強豪の大阪北にストレートで負けたが、3年時にはベスト8に進出した。エースとしてその立役者となった楠原はその年、全国で12人しか選ばれない全日本選抜にも選出され、台湾へ初の海外遠征も経験した。

「だからといって、世界を目指すとか、オリンピックの代表になる、とか、そういったことを考えていたかというと……どうだったのかあまり覚えていません。でも、地元のローカル番組に出演した時、『オリンピックを目指して頑張ります』なんてインタビューに答えているんですよ。やっぱり、そういう気持ちがあったんでしょうね」

 少なくとも当時の楠原が「強くなりたい」という気持ちを抱いていたことは確かだ。その証拠に彼女は自ら家元を離れ、大分県の高校に進学している。若干15歳にしての旅立ちが、相当な決意と覚悟のうえであったことは想像に難くない。クールなイメージが強い彼女だが、バレーへの情熱と意欲は誰にも負けてはいなかったのである。

楠原千秋(くすはら・ちあき)プロフィール>
1975年11月1日、愛媛県松山市生まれ。小学3年からバレーボールを始め、小学6年時には全国大会に出場。中学でもエースアタッカーとして活躍し、県や日本の選抜チームに抜擢される。大分・扇城高校(現・東九州龍谷高)2年時には山形国体で優勝。東京学芸大学4年時には主将としてインカレで優勝を経験した。ビーチバレーとの出合いは大学3年の時。友人に誘われて出場した大会で優勝し、インドアとは違うビーチバレーの魅力を肌で感じた。卒業後、地元のダイキに入社し、競技として本格的に始める。2004年のアテネ五輪に徳野亮子と出場し、1勝を挙げる。05年に湘南ベルマーレスポーツクラブに移籍。06年より佐伯美香とペアを組み、北京五輪出場を果たした。






(斎藤寿子)
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