「シドニー五輪を目指して、本格的にビーチバレーをやらないか?」
 突然、思いもよらない電話がかかってきた。声の主は、前年に国内企業では初めてとなるビーチバレーボールチームを立ち上げた株式会社ダイキ(松山市)の専属コーチ、瀬戸山正二(現・日本ビーチバレー連盟理事長)だった。チームには佐伯美香、徳野涼子、清家ちえと後に五輪出場を果たす有望選手がそろっていた。
「まさか自分が誘われるなんて思ってもみなかった」
 楠原にとっては青天の霹靂ともいうべき出来事だった。
 当時、楠原は東京学芸大学4年生。インドアのバレーボール部の主将として練習に明け暮れていた。夏にはビーチバレーの大会に出場し、優勝するなどしていたが、ビーチはあくまでも夏の思い出。プロ選手になるなどという考えは全くなかった。最後のインカレ直前だったということもあり、ひとまず返事を保留にしてもらった。

 実は、楠原のダイキ入社を強く望んでいたのが、ほかでもない徳野だった。
「1年目、私は清家とペアを組んでいたのですが、2年目になって清家が他の選手と組むことになり、私は自分のペアを探していたんです。そこで白羽の矢を立てたのが楠原でした。楠原には高さがありましたし、私と同じ地元・松山市出身ということもあって、地元企業からのバックアップを受けるにはもってこいの選手でした。私とも中学時代から連絡を取り合っていた仲で気心は知れていますから、全ての条件をクリアしていたんです」
 楠原からはすぐに返事をもらうことができなかったが、徳野は密かに手ごたえを感じていた。

 インカレで見事全国優勝を果たし、有終の美を飾った楠原は、早速ダイキの練習を見学に行った。徳野だけでなく、佐伯も清家も松山市出身。知らない間柄ではなく、楠原にとっては安心できる環境でもあった。あたたかい歓迎ムードの中、彼女がダイキ入社を決意するのにそう時間はかからなかった。

 1998年4月、楠原は晴れてダイキの一員となった。そして、五輪に賭けたビーチバレーボール人生の幕が切って落とされたのである。
 だが、現実はやはり甘くはなかった。楠原と2年後のシドニー五輪出場を目指したものの、国内上位2組に入ることはできなかった。シドニーへの切符を手にしたのは、同じダイキの佐伯と清家。それぞれ他チームの選手と組んでの出場となった。

 同じチームメイトの佐伯と清家が出場する舞台に自分たちが立てない悔しさは、もちろんあった。しかし、彼女たちの目標は既に4年後のアテネに切り替わっていた。自費を払ってまでシドニーへ行ったのは、4年後を見据えてのことだったのである。

「実際に肌でオリンピックという舞台を感じることができて、すごく大きな収穫を得ることができました。特に、試合を観て『絶対にアテネに行ってやる』と強く思ったことが、その後につながったと思います」
 と楠原。その気持ちは徳野も同じだった。
「スタジアムでの盛り上がりを見て、やはりオリンピックは最高の舞台だと思いましたし、その舞台に立って最高のプレーをしたいという思いでいっぱいでした」

 五輪への思いをより強くして帰国した2人は、再びトレーニングに励んだ。175センチの楠原と、168センチの徳野は、180センチ以上がひしめく世界を相手では、どうしても高さで劣ってしまう。そのため、コートの幅いっぱいを使ったサイドライン狙いのクロススパイクや、空に高々と打ち上げるスカイサーブなどを習得してハンデを克服することに努めた。工夫を凝らした戦術で着実に力をつけていった2人は2001年、02年とアジア大会では2大会連続で銅メダルを獲得。ワールドツアーでも4位入賞と結果を残し、いつしか強化指定選手に選ばれるほどの強豪ペアとなっていた。

 そして2004年7月、彼女たちはアテネ五輪への切符を獲得した。出場が決まったその夜、2人はコーチとともにシャンパンで乾杯をした。
「よかったね」
「ありがとう」
 ペアを組んで7年の月日が経っていた。

 メダル獲得を狙って挑んだアテネでは1勝はしたものの、残念ながら予選敗退という結果に終わった。それでも、2人は達成感に満ち溢れていた。もちろん、悔しさがなかったわけではない。だが、それ以上に7年間、苦楽をともにし、一緒に夢の舞台を踏めたことが何より嬉しかったのだ。

 それから4年の歳月が流れた。徳野は引退し、楠原は佐伯とペアを組んでの再出発。そして2008年北京五輪、選手と監督という立場ながら、再び五輪の舞台に立った。残念ながらアテネを超えることはできず、内容的にも楠原にとっては、悔しさだけが残る大会となった。
 今後の去就について楠原は、まだ決めていない。今年11月で33歳。引退してもおかしくない年齢である。だが、北京での悔しさが彼女を踏みとどまらせているのだろう。

 7年間、ペアを組んだ徳野は次のようにエールを送った。
「もし、悔しさをぶつける所がワールドツアーであるのなら、1、2年は続けるのではないでしょうか。でも、もしかしたら本当に4年後のロンドンを目指すかもしれない……。続けるにしても引退するにしても、とにかくこれまで培ってきたことをいかしてほしい。そして将来的に家庭をもっても、ビーチバレーに貢献していってほしいし、それができる人だと思っています」

 ひと昔前に比べれば、ビーチバレーは競技人口も増え、知名度もグンとアップした。だが、インドアに比べれば普及率はまだまだといえる。佐伯、徳野らとともにビーチバレーの先駆者である楠原がこれからやれることは沢山あるだろう。
 果たして、彼女はどのような答えを出すのか。4年後のロンドンでは、どの立場にいるのだろうか。国内のビーチバレーボール界が楠原の動向に注目している。


楠原千秋(くすはら・ちあき)プロフィール>
1975年11月1日、愛媛県松山市生まれ。小学3年からバレーボールを始め、小学6年時には全国大会に出場。中学でもエースアタッカーとして活躍し、県や日本の選抜チームに抜擢される。大分・扇城高校(現・東九州龍谷高)2年時には山形国体で優勝。東京学芸大学4年時には主将としてインカレで優勝を経験した。ビーチバレーとの出合いは大学3年の時。友人に誘われて出場した大会で優勝し、インドアとは違うビーチバレーの魅力を肌で感じた。卒業後、地元のダイキに入社し、競技として本格的に始める。2004年のアテネ五輪に徳野亮子と出場し、1勝を挙げる。05年に湘南ベルマーレスポーツクラブに移籍。06年より佐伯美香とペアを組み、北京五輪出場を果たした。






(斎藤寿子)
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